欲求を消費

どういうわけか、良くも悪くも、現代社会は望めば大抵のものは何かアクションを起こせば手に入るようになったわけで、場合によってはお金もほとんど必要ない。○○がほしいと思ったら、クリック一つだしね。簡単だよほんと。
欲しい、欲するものといえば、コミュニーケーションだってそうだけど、結局のところ、これを欲するのも、物を欲するのと変わらんわけで。


確かに人間的な欲求としてコミュニケーションの欲求があるという話は何度も聞くところだけど、実際それは他人とのやり取りを楽しんでいるというよりも、自分の欲求を満たすために行っているというほうが適切なんでせう?そうでなかったら、こうやってブログを展開している人間の気持ちなんてあったもんじゃないと思うのに。そもそも、個人的にはそういう発想が強いから、所詮ブログなんて個人の書きたい欲求のはきだめなんでしょ?っていう冷めた目線しかないわけで、仮にそこから何かを得た(と勘違いなさっている)方はそりゃたまたま書き手の欲求と読み手の欲求がうまい具合に交錯したにすぎない、なんて思ってるんですけどね。

ブログにしても2ちゃんにしても、自分の欲求を吐き出す場としての側面が強いものがこれだけはやっているというのは、やっぱり人間のコミュニケーションは相手のことを考えているというよりも、自分の欲求に素直に従っていると思ったほうがいいじゃないかと思うんだ。しかもここで面白いのは、自分がコミュニケーションをとりたいと思った場合には、その相手とのメールでもかまわないってことなんだよね。要するに相手が現前する必要なんてどこにもないってこと。そうやって他者の象徴とやり取りしているほうが楽しいもんねえ。


コミュニケーションは公的なもの、私的なものいろいろあるんだろうとは思うんだけど、その線引きって限りなく難しくて、公的な立場から私的なものが生まれるっていうのはよくあると思うんだけど。というか、そればっかりだよ。今の友達と初めて知り合ったのは学校です、っていう人がほとんどじゃないの?って話。みんながみんな、友達をオフ会で探したわけじゃないだろうし。

そしたら、公的な関係が無くなったらどれだけの人がどれだけの人とコミュニケーションを持つのって話になって、つうか学校にしろ会社にしろ、そこから離れたら、そこの人とは離れるのが普通だと思うんだけど。コミュニケーションのでき方からすれば。


そうするとさ、そこでもコミュニケーションを要求する人っていうのは、よっぽどコミュニケーションを取りたいんだろうし、そういう欲求が強いんだろう。そうじゃない人は、さしてそんな欲求は強くないんだろう。そうやって、私的な欲求に基づいていくということは、必要とするコミュが足りないってことなんだろうけど、じゃあそうじゃない人は、って言っても別に十分にコミュを取ってるなんて思っているわけじゃなかったりして、何というか、コミュはその絶対量よりも質と量に(つまり、誰とどのようなコミュをいかにして、それくらいの間とるのか)依存しているような気がして、結局コミュの本質なんてところは、わからないって言えば分からない。


それを擬制してさまざまな形に見せるのが、美しいのかもしれないけど、個人的にはやる気起きないなあ。なんでもかんでも恋愛ごとに包みこんだり、人間関係に包みこんだりするのも、さすがに誠実さに欠けるでしょう。そんなこと言ってるから、いつまでたっても無理なんだけどね。

皆様欲求で動かれるのだから、ぼくだってそういう欲求を持って、それ従って動いたって悪くはないと思ったり、思わなかったり。