個人と集団

この2つの概念って本来は別に相対するものじゃないんだろうけど、往々にして対立するもんだよね。

本来は個人ありきで、個人が集団を作ったのは個人だけでは達成できないことを集団でしようとしたからだと思うから、集団は究極的には個に奉仕するもの、って思うんだけど、今の世の中、集団があまりに大きな社会的実体になりすぎたと思うのです。集団は個人の利益追求のために生まれたのに、生まれたとたん集団固有の意思があるかのようにしてふるまい、個人なんて集団の前に消し飛んでしまう。

そんなわけで、個人の尊厳とか、人生とか、比較的軽いものに思えるわけで。まあ軽いものっていうか、憲法で個人の存在がどれだけ大切なものって謳おうが、陳腐なものって思うわけだけどね。


別のブロガーさんが見てたから、見てみたんだけどさ。
こういうこと言うとまた怒られそうだけど、攻殻機動隊の久世さんの考え方とか実は好きなんです。敵だけどね。割合と現実とお似合いというか、そんな感じ。社会をある種の集団と見て、みんなが勝手もので思い思いのことを言っている中で、それの共通善を実現していこうとすれば、(ある種のエリート政治の発現なのだが)少々犯罪的な手段を使ってもよい、つまり個人の人格とか人生とかを「道徳的に」侵害を加えてもよいということなんだよね。理想のためなら手段は選ばないというか、そのやり口に関しては真っ赤っ赤な人も真っ青ですよね、たぶん。

本来なら死ぬはずの運命にある子供たちを、今の中途半端な行政に救われるのと、洗脳という強制的な形でもって社会の歯車として使われていくようにするっていうのとだったら、どっちが幸せなのかねえ。いや、個人としてじゃないよ。個人としての幸せと集団としての幸せを天秤にかけて比較して、って話。まあ、過剰な正義感からくる傲慢さといえばそれまでなんだろうけど(そもそもそんな簡単に個人を集団の一部として完璧に動かすことはできないと思うけどね。集団総体としてある一定の方向に志向させることは簡単だろうけど、さすがに例外なく個人を一定の方向に向かわせるのは困難だよね。不確定要素が多すぎる。)、上から変える革命というか、普通は革命って下からなされるイメージだけど、それとは違うものとして、それはそれでもっともらしい論理を備えているって思えるんだよね。

おそらく集団は総体として数があるから、いろいろと個人がかなう部分が少ないわけで、個人は素早く相対化される現状では特に、個人と集団を比較して利益香料を測ったら、個人の価値を強調するなんてとても無理無理って、言いたいんだよ。

で、どこへ話もってくのかって言うと、そんな状況で個人に焦点を合わせることができるのは結局小説だったりアニメだったりゲームだったりするんだよね。その性質上個人に目が行くから、ってことだろうけど。個人の大切さを教えてくれることの成否は別にしても、そういうの見ると個人の大切さって思うのは確か。

ただ個人の大切さを強調するのは、それはそれで大切な何かを見落としているのだと思うんだがどうなんだろ。そのツケが今の社会に覆いかぶさって、将来われわれの世代が払っていくもの、って思わなくもないしね。
自分が便益を得るのなら、その分の害悪がどこかに発生していると考えるのが妥当で、実際周りにその害悪を受け取っている人がいなければ、究極的にそれは社会全体に覆いかぶさっているということになってる可能性は十分にあるんだよね。個人主義はある意味罪深いよ。個人の罪を集団で払えるなんて思いもしないしね。結局そのツケはみんなが嫌がって、押し付けあって膨らんだものだから。久世みたいな、個人がまるっきり媒介として解決するしかないようにも思えるよね。9回裏満塁フルカウントから登場するピッチャーみたいなもんだよね。守備はふらふらでもう役に立たない、とにかく3振で抑えなきゃいけないみたいな、そんな感じ。みんなの無策を一人に押し付けるんだとしたら、終わってるよ。
ああ・・・目の前にオバマ大統領が思い浮かんだ・・・

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個人は欲望の塊だし、現実的にはイノセンスなままなわけじゃないから、そこには醜い争いとか、欲望と欲望のぶつかり合いだとか貧困だとか不平等ってのが全くないっていう社会なんて創造できないわけで、ってかそんなんだったら集団とかいらんだろ。みんながみんな理想的な人格者で、必要最低限のものしか欲しないストイックな人間ばっかりって言うなら別だけど。それはそれで気持ち悪い(笑)

そういう人たちを昔の人たちは「徳がある人」って言ったんだろうけど、どうなんだろうね。どうでもいいんだけど。