将来のことを考えると押しつぶされそうになるとかなんというかそういう話

ぼくの身の回りの方々の多くが3年生で、大学のテストも終わってきたということで、就活組の方々は毎日のように企業説明会に行き、進学組の方は図書館に閉じこもるという光景が眼前に広がるようになってきました。そんな中で、大した準備もせずにここまで適当に過ごしてきたぼくは、これからの自分の将来についてどうするべきなのかを結構真剣に悩んでいます。先日は先日でそんなことを考えていたら食欲を失ってふらふらになったっていうどうでもいいこともあったんですが、やはり辛くても自分の将来について考えてみるということは必要なんでしょう。いい機会ですし。

「ぼく」の「将来」について考えるというのですから、「ぼく」という個人の主観的な要素と、「将来」という世界の客観的な要素の2つについて考えてみたいと思います。

じゃあ、先に「ぼく」にあたる個人的な事情について書きます。
さすがにぼくの個人データをウェブ上に書くわけにはいかないので、適当に書きます。

とりあえず22歳の大学3年生で来年4年生になります。平凡でとりたててなにかができるというわけではありません。日本語だけは日常生活で支障が無い程度には話せます。賞罰なし。ゼミは民訴をやりましたが、全く詳しくありません。平凡です。趣味は読書とネットです。だんだん将来について決めなければいけない時がやってきて、気持ちだけは焦っていますが本人の能力等は整っていません。

みたいな。本当にぱっとしません。

この時点でなんかもう詰んだという気がしなくもないんですが、気を取り直して次に行きます。次!次!


というわけで、続いて「将来」にあたる世界の事情について考えたいと思います。
とはいえ、世界の将来を詳細に(例えば、どの企業に就職できればいいお給料がもらえて一生安泰か、とか)見通せるほど、ぼくも賢くありませんし、そんなのが見通せる人なんていないと言っていいと思います。ぼくたちは極めて変化の激しい時代に生きていて、10年先ですら個別具体的なケースを予見することは不可能です(例えば10年前の創業間もないgoogleが今のような大企業になるなんてその当時に誰が予測できたでしょうか?)。

ただ、今現在、そしてこれからの世界を一般的な傾向までなら予測可能と考えます。非常に抽象的ですが、その範囲でしか予測は不可能だと考えます。

はじめにぼくは経済学のことはさっぱりなので、おかしかったら訂正をお願いします><
まず、今の世の中は極めて簡単に複製ができるようになりました。複製という技術は原本とほとんど変わらないものが大量に出来上がる世の中を生み出しました。こうなると限りなく複製が繰り返される結果、その複製される物は限りなく無料の方向へ近づく圧力を受け続けていくことになります。

そうなってくると、世の中の複製できるものと、複製できないものに大きな違いが生じるようになりました。
複製できるものは限りなく無料の方向性へと近づいていきます。勝手に値段が下がっていくのです。そうなるとどんどん人々は無料でダウンロードしていきます。無料の物には人が集まります。そこにある種のビジネスチャンスが生まれるかもしれません。
YouTubeなんかは人が集まるからgoogleが赤字の段階でものすごい金額で買いましたけど、そういうことです。人の集まるところには金がたまると。

無料にする以外にも、無料になるスパンよりも早いスパンで極めて質の高いモノを生み出すというデキる人だけがデキる方法もあります。ただ、これはこれでものすごくリスクが高いです。

一方で値段が下がらないものは相対的に値上がりします。これは複製をしたくてもできないものです。ライブDVDはいくらでも複製できますが、ライブそのものは複製できません。そういうものを指しています。
このように「複製ができない」といういわばバリヤーに守られたものは、無料化・デフレ化への方向から逃れることが出来ると考えます。


なにも、この話は複製に限った話ではないと考えます。「世界中から労働者がやってくる中で労働者がありふれたものになってしまって、労働者の給料が下がってしまった」、それは大量に複製され続けるデータとよく似ています。ホワイトカラーのインフレ化とでも言ったらいいのでしょうか、とにかく一定以上の水準の満たす均質性を持った労働者が大量に現れている事で、人間自体の価値が下がってしまっている。今の時代は人間個人の金銭に換算出来る価値も無料化の傾向を強烈に受けているものと考えます。

複製の時と同じように、同じような人間が増えればその人に支払う給与の額も減少する、そう考えるわけです。

推測ですが、複製の時と同じように、数が増えたとしても貴重さを維持する方法は2つあります。
1つ目は、個人レベルで極めて質の高いモノを生み出すことです。別にモノは有形無形を問いません。例えば、単に英語をしゃべれるだけじゃなくて、その英語がアメリカの東北部の英語でそっちのビジネスワーカーと対等に渡り合えるとか、単に弁護士資格を持ってますじゃなくて、訴訟追行のテクニックがとってもうまくて勝ちまくってます、とか、そういう話。そういうクリエイティブな人になる方法です。言ってしまえば、その業界の中で上位5%とかに入るような力を持つことだと思います。
まあ、そうそう簡単ではないと思います。

2つ目は、自分が死ぬまでの技術革新の段階では、無料化傾向につながる何かから守るバリヤーが必ず破れないという自信があるものを仕事にすることです。今の技術レベルを知らないので適当なことになっちゃうんですが、例えば今の技術では発電した電気をほとんどロスなしにして運ぶことはできません。となると、電力を消費する場所からそれなりに近いところに発電所を作る必要性があるわけです。現実に採算が合うか合わないかは別にしてほしいのですが、もし電力をロスなくして遠くまで運べるのだとしたら、発電所消費地である大都市から極めて遠くの場所に作っても良くなります。具体的には電気をほぼロスなく遠くまで運ぶことが出来るようになった場合、ぼくが今使っている電気は東京湾岸の火力発電所から送られているのだろうなあと推測されるわけですが、これが極端な話、ブラジルの発電所とかから電気を持ってくることだって可能になるということです。そうなると、もしかしたら遠くでまとめて作った方が安くすむかもしれません(そもそもライフラインを他国の領土内におくのかという問題はありますがw)。そうなると、発電所で働く人たちはブラジルへ行かなくちゃいけないか、それとも仕事をやめなくてはいけなくなるかもしれません。
ただ、現時点ではこれから自分が60歳になって定年になるまでにそういう技術が出来上がるかどうかと言われると、なんとか逃げ切れるんじゃね?とも思います(わかんないんだけどさw)。そういうバリヤーに守られた仕事をするというのも、無料化傾向から逃げ切る方法です。


たぶんこの2つのうちのどちらかの人間になれば、無料化・インフレの傾向から脱することができて、相対的に貴重となり、高い給与を持つことが可能になると考えます。で、そうでなければ、容赦なく無料化・インフレ化の傾向を受け、所得は減っていくものだと考えます。


資本主義は、その世界の覇権を握ったヘゲモニーに資本が集積する傾向があるようですが、それが人間のレベルで起こると考えます。で、その資本が集積する人と資本が集まらない人の関係には、何かしらの不平等な関係が結局生まれていくのだろうなあ、と夢想します。そしてそういう関係性は長い間変わらず続くんだろうと思います。


ところがです。じゃあ資本が集まらない人たちは死ぬほど苦しいのか、と言えばそうではないんじゃないかと思うわけです。仮に年収300万でもネットやケータイがあればそれがなかったころに比べればはるかに安くモノを手にいれることができるし、コンピュータで管理されたシステムの中で本来個人でやらざるを得ないようなこれまで家庭が担ってきた食事や介護といったことも、社会全体で24時間体制で行うことも可能になりました。確かにお金はないかもしれません。でも、10年、20年前よりも遥かに生きることが便利になっているということはいえると思います。

幸い、僕たちはバブル景気というもの・価値観を知らない生まれてこの方ずっと不景気という時代を暮らしてきました。消費そのものを美徳とする価値観一辺倒と言うわけではない人が多いような気がします。経済的には負け組なのかもしれませんが、そのことを不幸と感じないような価値観、そういうものがあればクリエイティブな人たちにならなくても、はたまたバリヤーで囲まれた聖域に入れなくても、実はそんなに生き苦しくないのかもしれません。かえって価値観が多様化した中では、そういう生き方ものもありなのかもしれません。


ただ、お分かりでしょうが経済的勝ち組と負け組との間には大きな差がつくのだと思います。その差は経済的な面だけにとどまることはないと思います。経済面も、持っている教養も、個々人の意識も、大きく違うものになると思います。単に生きるだけならどちらになっても変わらないのかもしれませんが、そこから先が大きく変わってくる、そう考えます。



では、ここまで来て、これからどうするのか。多分それが一番重要です。

結局いろいろ考えたところで、ほとんどの人は日々の課題に忙殺されてしまいますし、説明会のメールが来ればログイン合戦に没頭しますし、ESの締切が近ければ脇目もふらずにESを書きまくり、ぼくのような進学組もきちんとわかってるのか怪しいままに「国家賠償法4条の規定に失火責任法は含まれるのか」なんていう論証を丸暗記することに精を出したりすることになるわけです。これでは、世の中について考えていても意味はないに等しいですよね。

確かに世の中のことは大切。でもそれと自分の目前とが全く結びついているように感じられない。それは個人の意識というよりかは、そうせざるをえないシステムのほうに問題があるのではないかと思います。ただ、ぼくたちはシステムに乗っかってでしか生きることができないし、そのシステムを短い時間内に会見するだけの力も能力も持っていません。ならば、今のシステムの枠内でどうするのかを考えるしかありません。

仮に、今まで語ってきた世界の趨勢の中に流されて生きるとして、自分はクリエイティブな層に行きたいのか?そうでなくてもいいのか?をまず考えなくてはなりません。それから、仮に前者を選ぶとしたら、ハンパではない努力をする必要がある上にそれは運やもろもろの事情で報われない可能性があるけれどもそれでも挑戦するのか?その挑戦に見合うだけの知力や才能、体力や財力は大丈夫か?を考えなくてはなりません。そして、仮にひとつ前の問で後者を選んだとしたら、経済的には不自由かもしれないけどもそれをカバー出来るだけの楽しみを見つける必要があるでしょう。それは何でしょうか?

本当に、自分はどうこれから生きるのか。多分一人一人が真剣に考える時です。