天才の考えた普遍的な価値を押し付ける時

基本世の中は普通の人間ばかりだ。本当にすぐれた人間はほんの少ししかいない。というか、おそらく今PCの前でこのブログを読んでいただいている方の周りにも、誰ひとりとしていないほうが確率が高いのではないだろうか。

天才は不思議なもんで、どういうわけか、自分ができることはそれと同じように他の人もできると何の根拠もなしに妄信しているきらいがあるように思う。そのせいで、「どうしてできないのだろう?」と不思議がるのだろうか?と思ったりする。


世の中は天才ばかりではない。むしろほんの一握りの天才と、それにはるかに劣る一般人で成り立っているわけだ。
天才と同じ教育の機会を与えたからって、みんなが同じように育って同じような成果を出せるわけではない。
むしろ、井の中の蛙には見せてはいけない大海を見せて不幸になっているとしか思えない。

たとえば、優秀な裁判官を作りたいとしたとき。
当然多くの人に裁判官という職業を目指してもらい、それによってうずもれている才能を見つけ出すのが優秀な裁判官の排出方法だろう。ある程度の割合で優秀な人材が現れる以上、母数を多くすれば当然より優秀な人材が確保できるというのはよくわかる。
ただし、それは皆が同じような才能を持っていると仮定した上での話だ。実際には受検者間での才能の格差というのは甚だしい。
そのような行為は、より多くの一般人の不幸な野垂れ死にを招くことになる。

本来ならば、それは裁判官になどなれるはずのない人間の集まりだ。

高校生に対して、子供に対して、先生を初め大人は、夢を持て、という。
その成果はどうかはわからないが、そうやって夢を持ってその夢に突き進む人がいる。

でも現実は違う。
天才と同じプロセス・同じ時間を費やしても、一般人は天才と同じモノを手に入れられない。
多くの一般人は天才と同じ努力を重ねたにしても、最後には奴隷的な地位に甘んじるにすぎない。
そして自らがその奴隷的地位に追い込まれた時というのは、すでに取り返しがつかない所まで人生は進んでしまっていて、それどころか才能もないくせに無理やりしがみつくから害悪をまき散らすことさえある。


玉石混合という言葉があるけど、その言葉の意味するところは「玉を磨くために雑多な石ころをいっしょくたにして、玉が磨き終わったらあとはゴミとしてポイ」ということなのではないかと、ついつい思ってしまう。玉の美しさは、志半ばで刃折れ矢尽きた者たちの屍の血で赤くてらてらと不気味に光っているだけにすぎないように思えるのだ。


もしそのことをわかりきった上で天才たちが自分たちと同じ土俵上に一般人を誘い込んでいるのなら、その割り切りっぷりには若干のすがすがしささえ感じる。でも、天才たちはそんな利己主義的なことではなく、本当にお互いを対等に扱い、他人も自分と同じことができるのだと信じ込んでいる節がある、ぼくにはそう思える。

彼らは本当に無邪気なのである。その無邪気さがどこまでの人を傷つけてきたか知らない。



それに拍車をかけたのが、大衆社会化・コモディティの形成だと思う。

天才が何を考えていようが、最近になるまでそれが社会の一般ルールになることはなかったのだ。
日本の歴史を見ていても、1000年前に紫式部源氏物語を書いたけれど、地方の一般の農民は物語を書くことはおろか、識字能力すら要求されていなかった。その時代の天才が行っていることと、一般人が行っていることには、大きな差があったのである。


ところが今はどうだ?

世の中を見れば、ありとあらゆるところに天才たちが作ったシステムが口を開けて我々を待ち構えている。
もっと上を目指そう、自己実現だ!と言って甘い言葉をささやく人たち。
大学受験。

そして、ありとあらゆる知識は家庭にあるパソコンから手に入れることができる。
知ることで欲望は喚起されて、今までなら満足していたはずの基準では満足できなくなり、すべての満足の基準がインフレ化した状態にある。

我々は知らなければ幸せにいられたものを知ってしまったのである。「我々にはありとあらゆる道が開かれているのだ」、そういう甘言の裏返しは、一般人が本来巻き込まれることが必要のなかった領域にも踏み込んで不幸のスパイラルに突入することだって可能なのだ、ということにすぎない。



昔は、結婚して、子供を産んで、ご飯を作って、と言った誰にでもできることが価値観の中心にあった。
やりたいことや自分探しなど必要なかった。八百屋の子は、八百屋になればよかった。
テレビがなかったから、世界的に見れば不細工でも村1番の美人と結婚できた。


ところが今は?

我々をかつて支配していた価値観は、天才たちの考えによってもはや価値観と呼べないものへと変容し、何が正しいのかいや、そもそも正しいものなどはじめから存在していなかったのではないか、という漠然とした不安感まで我々は抱いている。

そして文明の移り変わっていく速度は日々速度を増していて、それに伴って必要となる天才の数も増加し、それに伴ってそれの犠牲とされる一般人の数も増加することになる。




パラダイム=シフトが起こる世代は、否応なしに莫大なコストを強いられる。
たとえが適切ではないかもしれないけれど、たとえば太平洋戦争。あの戦争で300万人以上の日本人が命を落としたけれど、パラダイムシフト後にはそれまでとはまったく異なる形の国家が出来上がった。最近で言えば、ネットの隆盛によって破産を余儀なくされた出版社にしても、より進化した社会を作るためのパラダイム=シフトの犠牲者の1人なのだろう。

でも我々はその莫大な損害を目にしても、人間という種としての進化を続けていくために、この損害を避けることはできないのだ。
「人間」は多くの個体の屍を積み重ねて、神への高みを目指しているのだろう。だからこそ、たとえ本人が望まなかったとしても、才能を持って生まれてきたものはその才能を生かして、多くを周りの人間に分け与えなければならない、と思う。そうでなければ、天才の犠牲として散っていった多くの一般人が浮かばれない。



天才たちの言説が世の中に出回り、だれしもが大学に行けるようになり、曲がりなりにも皆が均一化していったところに現れたのは、今までの価値観の変容とそれに代わる「天才には実現できるが、一般人にはそうそう実現できそうにない理想」であった。

でもこの理想、一般人にはこれはひどく生きにくいのだ。

そしてその一方で、天才はそうやって自分たちのみが共有できる「理想」を一般人にも押しつけることが一般人には苦痛なのだと気付かないほど、恵まれているのだ。

そんな昨今だから、ぼくは息苦しく生き苦しい。