たぶん恋をしている

高校生のころぼくは数学が苦手だった。理由は至極簡単で、テストで点が取れなかったからである。受験で数学が必要という難儀なことになっていたから、どうしても点を取れるかとれないかという尺度のほうが、数学本来の面白さよりもずっと大切だったのだ。
数学の得点力(「数学ができる」ということとはまた別の話だと思うけど)は、問題に対する一般的な(何も奇をてらう必要はない)発想力と少々計算がややこしくても最後まで計算をやりぬくことができる腕力の2つに依存しているように思う。
ぼくの場合、特に腕力がなくてどうしようもなかったわけだけど。



でも数学がテストに関係ない大学生になって数学を見返してみると、数学的な考え方ってものすごく性に合うし、ずっと数式を眺めていても飽きない。
前々から周りの人から「本当は理系じゃないの?」って言われてたけど、もしかしたらあながちハズレでもないかもしれないと思い始めた。



数学っていうのは概念をしっかりしないといけない学問だ。

たとえば、本編で素数の定義について話しているのだけれど、素数の定義は
「正の整数pが、1とpのみで割り切れるとき、pを素数という」
では足りなくて、
「整数p>1のとき、1とpのみで割り切れるとき、pを素数という」
ここまで定義を指定しなきゃいけない。

さらにたとえば、以下に数列{an}があるとき、
1、2、3、4、5、6・・・・・
と続いているからと言って、その次の数字が7とは限らない。
過去の規則性は将来の値に必ずしも対応しない―これは何も数学にしか成り立たない話ではない。将来を見るのにすべてにおいて通じる話だ。

たとえば、コインをひたすら投げ続けて出た裏表の結果をひたすら記録していったとしよう。
そこで仮に100回連続で表が出たとする。そこまで来ると投げているほうとしてはいい加減に裏が出そうだと思うかもしれないが、実際には何度繰り返そうがコインの裏表のどちらが出るかの確率は変わらない。
ただしコインの表面のみがひたすら出続ける確率は、出続ければ出続けるほどに低下する。
おそらく人間は無意識のうちに「コインの表もしくは裏が出る確率」と「コインの表面のみが出続ける確率」とが感覚的にごっちゃになっていて、次くらい表が出るんじゃないの?って思うのだろうと思う。

数学的な考えを持てば、我々は感覚的にごっちゃにしてしまって誤った判断を下しやすいものも最善な手を尽くすことができるような気がする。
おそらく今の社会を支えている合理性というのはそうやってなりなっている。



ぼくのバイト先にはとても割り切りがはっきりしていて合理的というか、そのきらいがすぎる人がいる。
端的に言ってしまえば、仕事でやってることすべてに合理的な裏付けを求めてくるのだ。たとえば、細かいこと―プリントを机のどこに置いたということでさえ―もその先に起こることを考えた上でやるようによく言われる。
その人はものすごく仕事ができる人だし、個人的にはそこんとこは尊敬しているのだけれど、若干どうかなと思うところはやたら杓子定規なところで「コンピューターが5:00でシステムを閉じてしまうから1分でも遅れてしまうとまた後日来い」(実際閉じるのは社員の裁量だから5:00ピッタリに閉じなくてもいいわけで)というとか、「それはぼくの仕事の範囲じゃなくて他の人のやつだから」と言って他の人のをやろうとしないとか(わからないなら仕方ないけど)いうところで、そういうのを見ていると、仕事とか人間関係とかってあいまいな部分を作っておいたほうがはるかにうまくいくんじゃないかなあ、と思う。



個人的には数学がもたらしてくれる合理性は好き。

でもそれとは別であいまいな関係というのも好き。

じゃあ、この本の中の2人のあいまいな関係を誰がはっきりさせてくれる?



とか何とかそんなことを考えながらこの漫画を読んでいたのだけど、そんなこと以上にぼくは単位円の美しさとか、数列を複素数平面に移したときの真円を描く美しさとか、そういうものに心を奪われて、それどころじゃなかった。

振幅に見えるものだって見方を変えれば円にも正三角形にもなる。

そんな数学の美しさが詰まっている1冊。

というか、単位円を書いて証明しているとほんと何時間でも考えていられそうな気する。図形を見つめてニコニコしているかもしれない。
というわけで、ぼくは数学に恋をしている。



おまけ
これが解けたら天才。

3 以上の自然数 n について、x^n+ y^n= z^nとなる 0 でない自然数 (x, y, z) の組み合わせは存在しないということを証明してください。

※有名な(?)フェルマーの最終定理。ちなみにn=2の時は、三平方の定理ピタゴラスの公式)になって成立する。