視線がなくなることと視線がありすぎること

注目されないことを理由に挙げて犯行を犯す、というような犯罪が増えている。
謎である。
謎なのは、何も犯罪をすることではない。他の人にそこまでして着目されたいか、という問題である。


この問題を見ていくには、犯人個人の人格と社会の要素の両方に気を使う必要があると思う。さすがにどちらかだけでは無理だと思う。


今日の社会には「視線がない」。
要するに、知りあいや友達以外の人と深くかかわらない、地元の人とあいさつをしない、とか。そういう話だ。


ぼくの実家の近所なんかは未だに、よくいえば「近所付き合いがある」、悪くいえば「田舎特有の厚かましさが通用する」世の中になっている。
向かいのババア(こんな言葉使いしたくないが、事実腹立たしいので使うことにする)なんかは、近所の秘密を聞き出して喜んでいるし、ぼくなんかはそのうちの孫よりも俗にいう「いい大学」に行ってしまったので、顔を突き合わせるたびに気分が悪い。
でもそのババアは、ご近所におすそ分け、といった昔ながらの近所付き合いというのは、一応やっている。

きっと実家の周辺にはまだ「視線がある」のだろう。
はっきりいって、「視線がある」ことほどうっとおしいものはない。


きっとうっとおしく感じているのは、ぼくだけではない。共同体の再構成とか言っているが、おそらく日本人の多くは昔ながらの共同体・ムラ社会が嫌でいやで仕方がなくて、今日のような「視線のない」社会を作ったと思うのだが。


じゃあ困るから、明日から「視線のある」社会を作りましょうとか、そういう次元の話じゃないだろうと(笑)
「視線のない」社会は、世間のレベルで個人主義を実現するためには残念ながら必要なプロセスであって、近所からねちねち言われない世の中を作り上げるための代償だという気がするんだけど・・・




あと、個人についてだけど、事件を起こしてまでというのは、やっぱり異常だろう。

過度に「注目されないから、もっと注目してほしい!」と何かしらの行動に走るのは世間一般に広くみられることだけど、小さい頃に母親から与えられた愛情が不足していると「感じる」ことに関係しているらしい。(子供に対しての愛情の寡少は、のちのち子供の精神の未発達という形で表れるから、注意しないといけない・・・なんて結婚したこともないぼくがいうのはなんですが。)

この「愛情が不足していると感じる」というのは、何も母親の愛情の絶対量に比例して子供の精神発達が決まるということではないことを示している。
つまり、子供は「自分が母親からの愛情に満たされていると感じている」状態で、精神が発達しているようなのだ。
だから、極端な例ではあるけれど、一般的な母親としては十分に愛情を注いでいるといえるけれども、子供にとってはそうでないと感じられるときには子供の精神発達はうまくいかない。
一方で、一般的な母親としては十分に愛情を注いでいるとはいえなくても、子供がその少ない愛情で満足しているならば、子供の精神発達はうまくいくようなのだ。
つまり、愛されていると感じる基準が赤ちゃん一人ひとりによって異なる以上、愛情を欲していることの裏返しとしての「もっと注目してほしい!」行動は、人によって起きやすい、起きにくい、というのがあるのだということになる。




結局は、あらゆる問題って社会で解決策を講じれば全体的には変わるような気がするし、それは全体として統計を取れば変わっているのだけれど、それによって特定の個人の行動を止めることって難しいのさ、って話だ。