能力の評価論

他人の能力を評価することってほんと難しい。見ている人に恐ろしい衝撃を与えるような、たとえばピカソみたいな才能っていうのは、善かれ悪しかれ何らかの評価を下す人多いんだと思うんだけど(そもそもピカソなんかそれまでの芸術の流れを知っていたほうがより面白く見えると思うしね)、それに及ばない中途半端な才能って、見分けるのがすごく難しい。

個人的には待った面白くないお笑い芸人とか、世間が面白いって評価しているのを見てどうしたらいいのか迷うんですよね。世間のいう「おもしろさ」に客観性があるのなら、それに自分の基準を本心とは関係なくさっと合わせて評価だけはその物差しでしてあとは知らんぷり、というのも意味はありますがね。

あと思うのは、低い評価にもいくつかパターンがあるのです。一つは本当にそれが面白くない場合。多くの人が面白くないというし、それを見て自分も面白くないなあwって思ったら、それは当然に評価が下がりますよね。もう1つは、本当は価値があるのに出る杭は打たれる的に評価されないタイプ。日本の中では(もちろん海外にもあるんだろうけど)そんなのが多いような気がするよね。そういうやつに限って価値があることが多いのに。

なぜか日本の社会はそのものが持っている才能よりも、人当たりとか事前の根回しとか、そういうものが評価の対象になるところはあります。というか、それがほとんどかも(笑)そうやって高い評価を受けた人のことを、ビジネスの世界では「ノンワーキング・リッチ」って言うらしいです。
結局そんな人は
「人に反対することはない」反感を買うようなことは極力避けます。
「リスクは負わない」責任があるようなことは部下にやらせます。
「人の手柄は自分のもの」しっかり手柄だけ取って、経営会議で発表します。
「基本なにもしない」成長もなければ失敗もない、目立たない、ということです。
(某ブログより引用)
まあ、才能があるなら客観的な人当たりのよさとか、学習次第でいくらでも身につけられそうな気がしますが、それができない人は往々にして評価が低い。「ノンワーキングリッチ」みたいな人間が増殖すると、みんなが「やるべきことを中途半端にやっとけば、そこそこの成果を手にすることができ、そのことにより本質的に困ったことまでには至らない」という心理状況になって、その組織からは革新的なアイデアが出てこなくなってしまう、その最たるものは行政機関だと思いますが。


さて話が横道にそれたけど、じゃあそういう役に立たない評価をどう覆すかっていうのも難しい。一応その評価っていうのは、ある集団の総意として存在している評価だからね。それに対して、評価項目を違うものに再定義して、反する評価をしようとするわけだから、そりゃ難しいやね。そしたら、それはその高評価を受けている人間も、その人に高い評価を与えている多くの人間も、本当に才能を持った人間を登用して組織を再定義していこうという観点からは害悪でしかないわけだよね。それこそ、組織の多くの人間が害悪になってしまったら、それこそエリートによる統治というか、そういうものが正当性を得る契機になるんじゃないかって思ったりする。個人的にはエリート統治論自体は結構価値のあるものだと思うけど、エリートが常にエリートたりうるかというと、それはなかなか難しい。


例えば人の書いた原稿とかを評価するのってなったら、「おもしろいかどうか」の定義を確認する前に、まずそんなところを気をつけていかなきゃならないんだろうけど、やっぱ難しい。


で、面白いかどうかを評価するのも難しい。善い・悪いとはまた違うものでしょう。ある意味「売れる・売れない」って形で金銭に価値を測る方法もあるんだろうけど、それもいかがなもんかなと思うし。


そんなことを考えだしたら、止まらなくなった今日この頃です。