階級の形成

少子化が問題と言われるようになって久しいけど、少子化の一番の問題は「子供を育てるのに十分なお金がないこと」っていう経済的不安をあげている人たちが多い。ざっと考えて、子供一人が大人になって成人してお金を稼ぎだすまでに、今の日本の一般的な尺度からすれば数千万はかかるだろうから、その不安というのも十分にうなずける。

そこでよくあるのは、こんなに貧困になったのは誰のせいだ、政府のせいじゃないか、というのがお馬鹿なパンピーのパターンだけど、まさかそんなことあるわけない。OECDのデータを見たらわかることだけど、バブルが崩壊してからずーっと貧困層自体は増加をしてきているわけで、ここんとこ数年景気が良くなりつつあったから少しは少なくなったけど、「貧困層」という一定のそうは確実に形成されてきているのであります。


そこで面白いのは、「子供にかけられる十分なお金がない」って言ってる人は、「一般人の尺度」に合わせているってことだよね。例えば、生まれてしばらくしたら、塾とか習い事とか行かせてあげて、小学校も下手したら私立に行かせて、大学だって私立だとか、それまでの生活もほかのうちの子と同じような生活をさせてあげたいとか、まわりの他の人に合わせて考えたら、そりゃ無理もあるだろう。気持ちはわかるけどね。

そこで、たとえば「一般人」=「周りの人」という構図が崩れて、無意識のうちに人々が階級によって住み分かれていくとしたら、「周りの人」の価値観はその意図が属しているグループの価値観になるわけで、たとえばその人が貧困層に属しているのなら、子供にお金をかけられる金額だって他の貧困じゃないグループに比べれば少額だったとしても、その額でうちは十分にやっている、となって、子供を産む経済的余裕があるなんて勘違いするんじゃなかろうか、って思うんだけどな。

人間は不思議な生き物で、社会全体にある格差よりも、自分が属していると思われるグループ内での格差のほうに目がいきやすいものらしいです。具体例としては不敬だけど、御皇室と自分の現状の生活と比較して格差を感じる人がどれだけいるのか、ってことですよ。普通の人たちは皇室の方々が訪れなさったレストランに行けなかったとしても別に、そもそも皇室と自分とは違うグループにあるわけですから、比較対象にすらしないという人が本当のところでしょう。それと同じことが、アメリカだったら白人と黒人の間にもあるわけですよ。ところが、例えばマンションの隣の人がやったことっていうのは自分もやりたくなったりするわけでしょう。本能的なもんだから仕方ないとは思うんだけどね。


逆に本能を利用すれば、そういう階級だって使えるチャンスはあるかもしれないってことですよ。特に少子化対策みたいに費用対効果がはっきりと表れないようなものに対しては、そういう発想もありだとは思います。なんて言ってると、また問題扱いされるわけだけどさ。まあでも、階級は社会全体での需要と供給を現したもの、とも言えないこともないわけで、(それが個人レベルにまで固定さえてしまう弊害は周知の通りですが)士農工商みたいに「○○の子は○○」ではなく、一応いろいろな自由の保障はされているけれど、現状として緩やかな階級が存在している社会、というものは、一考の価値があると思う今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。