破壊と再生

うちの県に伊勢神宮があるんだけど、ここって20年おきに建物をすべて建て替えるんだよね。その理由は、建築物の耐久年数の現実、とか建築技術の伝承とか、いろいろ言われているけど、究極的なところは、建物を新しく建て直すってことを意識させることにある、と思う。古いものを取り壊し、新しいものを作る、っていう単純なことなんだけど、それはおそらく何百年とヤマト地域を支配してきた古代の皇室が考え出した比喩だと思うんだよね。

永久に存在するものはない。それにしがみついていてはいけない。破壊を受け入れろ、そして再生を行え。そういうメッセージだと思う。


最近気づいたことがある。

他の人には至極どーでもいいことなんだろうけど、個人的にはとても重要なことだから、ここに書いて忘れないようにしようと思う。

自由はどうして大事かってことをよく受験勉強中にやるんだけど、結局のところ、そんなの普通の学術書には書いていないわけ。だから、気になったら自分で考えるか、他の本を調べるしかないんだけど、手に入る本をいくら読んでも、そんなの書いていない。そんなわけで、最近ハイエクとか背伸びして読みだしたんだけど、肝心かなめのところはわからない。どうやら、自由を確保するのは人間の幸福につながる、ってことはかろうじてわかるんだけど。

で、考えて至った結論が、自由は今の人の生活を幸せにしていくだけではなくて、将来の人を幸せにしていく一助になってるってこと。
とっても思うことなんだが、自由っていうのは、無意識に人的関係の中で様々なものを最適な状態に変化させる力を持ってると思うんだ。もちろんその直接的な力を持っているのは市場なんだけど、その市場は自由市場であることが第一に求められるから、その力の裏づけは自由にあるってことだよね。

例えば、目の前にニンジンが一個あるとして、それがいくらで売れるか考えて見ることにしよう。その値段は「みんながたまにはニンジンとかも食べたいから、買おうかなって思う気持ち」によって決まる。さすがにニンジン一本を買えないほど貧乏な人はいないだろうから、持っているお金の額は関係ないものと考えると、そうなるはずだ。決して、ニンジンが収穫されるのに必要となる労働量とは関係ない。(と、さりげなくアチラを批判w)みんなが50円でいいと思えば50円を出すからそれが適切な買価となる。

でも、国の法律で、ニンジン1本はこれから500円で売らなきゃいけなくなったとする。当然売らなきゃ罰則があるから500円で売るはずだ。買う側も500円でしか売ってないのだから、500円で買わざるを得ない。社会の中で、本来50円となるべきものが500円で売られているということは、その法律の対象となっているもの、ここで言うと零細農家とかになるのかな、が、450円分本来ならば得られなかったはずの利益を得ていることになる。それによって、本来ならば淘汰されているだろう農家が存続することになる。
当然その存続の費用は国民から出ていっているわけで、そんな不均衡な支出は当然社会や国家を疲弊させる原因になる。それが積もり重なって国なり社会なりは疲弊し、ひどくなると崩壊して亡国っていうことになるんだと思う。

自由は、社会を規制によって無理やりにゆがめられた姿から、本来のあるべき姿に戻してくれるって点に重要な役割がある。そうやって、社会は日々新しい姿に生まれ変わって、疲弊したとしてもその歪み、要するに既得権益とか、さまざまな社会的制度とか、われわれにそれまでは利益を与えてくれていたものなんだけど、そういうものを取り払って存続していけるわけ。社会の制度は作った瞬間から陳腐なものになり果てて、終局的には朽ち果てるしかないものだから、それに日々変化を加えていかなければ存続なんてできやしない。

だから自由って大切。
実際、自由を保障しなくても、疲弊した社会を生まれからわせる方法はいくつかあるよ。革命とか。戦争とか。
ただ、それによって莫大な人命と財産が奪われ、亡国の危機に陥ってきた国が数多く存在しているのは、歴史の示すところでしょう?
革命とか戦争とかっていうのは、社会の疲弊具合が社会の内部の改革においては改善できないくらい、いわば究極のところまで追い込まれた段階での選択であって、それは最適な手ではない。革命を悪いとか、戦争が行けないとか言う前に、そこまで行きついてしまったという現状に思いを巡らすべきなんですよ。


ただ、自由に裏付けられた自発的な改革で、問題なのは、破壊対象になっている既得権益とか諸制度とかっていうのはそれまでの社会で支配的であったものだってことで、それを破壊するのはそれによって守られている人達を破壊し、今までと違うことをするように強いることでもあるということだよね。もっと言うと、そういうそれまでの社会で支配的だったものをぶっ壊すっているのは、今までの社会の死・破壊を意味するわけ。戦争で多くの自他国民を殺して、革命で多くの自国民を殺すことになるのと同じように、場合によっては改革による死者だって想定しなければいけない。っていうか、社会のパラダイム転換に犠牲はつきものだって言われたらそれまでだけどさ。

でもね、そこで破壊とか死をあきらめたらいけないんですよね。結局社会の歪みを正すという局面が来るのだから、それをいくら先延ばしにしたところで、いつかはそのつけを払わされることになるわけで、できるだけ社会にとってローコストな方法で古い社会の死は迎えられる必要があるわけ。死ぬことは避けられないのなら、最も楽な方法で死ぬべきであると思うんだが。そして新しい国家として生まれ変わる。破壊と再生。


個人的にイギリスとかアメリカが今でも世界で覇権を握ってヘゲモニーとして存在しているのは、その破壊と再生を最小限のコストで行うことができる社会のシステム作りが行われているからだと思うんだよね。そのシステムが、自由と民主主義なんだろうって、最近になってようやく思い至った。今までにもアングロサクソンの覇権は終わる!とか耳にたこができるほど、何百年も前から言われ続けているのに、まだ終わらないもんね。やっぱ、その実力は生まれかわる社会としてのシステムを備えている(特にアメリカはそれを国家の成立時点から備えている。そのことは迅速な対応が求められる現代社会においては良いことになるんだろうが、逆に歴史のない国として各国への戦争とか、意味不明なことをしてる点で短所でもあると思うんだけど)点にあるのかなと。


まじアングロサクソン賢いわw勝てる気がしないw


中国とかだと、それは易姓革命とかいう論理で片付けられるんだろうけど、所詮自由と民主主義に比べればカスw

そこで、冒頭の式年遷宮の話に戻ってくるんだけど、それを社会の破壊と再生の比喩と考えると、この国とかこの社会って確かに皇室を核にしながら変わってきた社会ではあるのですよ。言ってしまえば、天皇って言うのは無色透明のガラス瓶みたなもんで、それに何かが入って日本の社会が出来上がるわけ。それは時代によって、貴族だったり、武士だったり、民衆だったりしたけどさ。そこにおいて、ガラス瓶はガラス瓶があるってこと以外には、本質的に社会にかかわらないから、社会の変化をガラス瓶の中に任せることができるのだよ。いわば、この社会は社会の自由な変化を許容する皇室によって、伝統的な皇室のイメージとは逆説的だけど、社会を変えていって、終局的な社会の死とか消滅を防いできたと思うんだよね。

こんなこと言ってると、右翼!とか言われそうだけどw

まあ、そんなことを思ったのですよ。

破壊と再生が重要で、それを最小限のコストと犠牲で行うべきだということは何も、社会に限らず、個人にも程度の差こそあれ言えることだけどね。


じゃあ、社会が変化するにはどうすればいいかってことなんだけど、現状では変わりそうにないよ(笑)
いろいろ社会を変化させようと思っている運動はあるけど、どれも実を結ぶようには見えないよね。
結局変えるなら、社会の中枢から変えていくことでしかあり得ないんじゃないだろうか。

個人的な権力志向はそういうところから発するのが望ましいよね。金とかじゃなく。



簡単にまとめると、変わることは恐れても嘆いてもはじまらないし、それを無視したり対症療法的に直してみようとしたところで、過去には帰れないどころか、それはいつか大きなしっぺ返しの形をとってわれわれに帰ってくるもの。現実を見つめてそこから始めましょう、っていうのが一番大切で、もし古くなった社会は死ぬというのが運命なのなら、それを受け入れて始めましょう、って話。

そんなことを個人に適用できる範囲で考えてみたりもしたんだけど、何かおおらかな気持ちになったねwww


考えながら書いてたら1時間30分・・・そんなことしてる前にやることやらねば・・・!