西尾維新と悪魔的考え

いろいろあるから、順番に行こうと思うんだ。

西尾維新なんだけどさ。試験も終わったし、今更何なんだよって感じなんだけど、クビキリ〜を読んだんだよ。
なんつうか、麻薬みたいなもんだよね。アレ。麻薬だから、体に合わないっていう人もいると思うんだけどさ。そういう人は服用は差し控えるべき(笑)


全体として悪魔的なんだよなあ(天国と悪魔見てきたから、そういう言い回しになってるだけだから。あしからず。)。

どこが悪魔的なのかいうのは難しいんだけど、読者にわかった「気にさせる」っていうことかな。実際あの文章にあの文章以上の意味はないけど(だって、戯言なんでしょ?)、なんか、「わかったような気になる」んだよね。

そんで、わかったように思えるのはさ、厄介なことに、”この世の真理”。



この作品が表面的に面白いのは、戯言使いの”ぼく”がいろいろな天才がいる中で、言葉というギミックを使う範囲では天才と互角に渡り合えるってことだと思う。自分はこの小説を読む時、この”ぼく”の視点からずっと読んでたんだけど、結局それは、自分と”ぼく”を同一視していく一過程だったりする。要するに、自分はあたりまえだけど実社会でも天才じゃないし何の社会的評価もされないような存在なわけだけど、それとよく似た”ぼく”が天才の外観を作ることでほかの天才と張り合っていくことにルサンチマンチックなカタルシスを感じるわけ。と同時に、若い人特有の幼児的万能感とでも言ったらいいのかな、そういうのも満たされるわけ。

総じて見れば、西尾維新の小説の世界は好きな人にとってはいい世界だよね。ほんとに。


でも、全くそれと対極で絶望的な話もあるわけ。

考えるとわかるんだけど、この”ぼく”は結局言葉っていうギミックを使っているだけで、本物の天才と渡り合ってしまえているんだよね。偽物のくせに本物と張り合えることができてしまうわけ。しかも、どんでん返しに次ぐどんでん返しで、真実が何なのかわからなくなってしまう。真実とはなんだろうか、そして真実は偽物にも凌駕されてしまうのか。それで何が真実で何が正しいのかわからなくなってしまった世界に放り出された”ぼく”は、最後に一つのどうしようもない「命題」にぶち当たることになる。

もしかして、身の周りすべての事象は自分では何もわからない、そして真実なんて存在しない、いわば「戯言」だらけなんじゃないかということ。

もっと言いかえれば、全存在の無価値、無意味、ってとこだろうか。


ぼくなんかは前々から、全存在の無意味・無価値っていうのはある種の真理だって言ってるから、そんな結論を持ってこられても、「あ、まあ、そうですよね」って感じなんだけど、そういう価値観に慣れていないと刺激的に見えるかもしれないよね。もしくは、そういう価値感を少しばかり持ち始めた中学生とかには、「自分の思ってることだ!」って、面白く思えるかもしれない。ただ、こういう価値観は(残念ながら)社会では排斥させられる運命にある。

学校の先生は絶対人間が生きている意味なんてないなんて言わないはずだ。それは「すべての存在に意味はあり・すべてのものにそれとしての価値がある」って、今までの社会が規律を作ってきたからだ。すべての人が全存在の無意味とか無価値とかを真剣に考えだしたら、つきあたるのは人間という存在の矛盾だよね。下手したら、それは人間の存在を否定する考えなわけ。

きっとこんな考え、昔から人間は持ってたんだと思うんだよ。それくらい気づく人はいっぱいいるだろうし。だって、例えば今から50億年先の将来を考えたとしてだよ?、太陽はとてつもない大きさに膨らんで、地球は太陽の熱でズタボロになって、どう見ても人間は絶滅していて、やがて太陽は自身の水素ガスを燃やしつくして白色矮星になって、今この世の中で何しようが、地球も太陽も古代遺跡もぼくの墓石も、ぜんぶ最後にはヘリウムガスになってしまうんわけじゃん。今どんな破滅的なことをしたとしても、社会的評価を上げるようなことをしても、最後にはその痕跡も何もかも消滅するわけでしょう。そしてそのヘリウムガスだって、そのままとどまるわけじゃない。いつか宇宙が一気に収縮する日だってあるかもしれないしね。机の上で考える限りにおいては、全存在は無意味で無価値なのさ。このことは、ある種の真実をついている。でも、そんな価値観っていうのは、究極的には人間とか自分自身の存在に疑問を持つ考えなわけだから、そのような価値観がむき出しで社会に存在していることは、社会を作り上げていく上で望ましくない。

そんな価値観と対極的なのは、まさしく聖書なんだと思うんだよね。「産めよ、増やせよ、充ち満ちよ」の言葉に代表されるように、ある種の真実をわかった上で、それを否定するように「すべてのものに存在する意味はある、すべてのものにそれ相応の価値がある」って、言ってるわけ。キリスト教は全部わかった上で、そこから社会の安定を考えて、敢えて希望的な意見を言っているように思える。そういう面で、西尾維新が小説の最後で読者をほっぽり出す世界の価値観というのは、とっても不安定でとりとめがなくて不安な気持ちにさせる「悪魔的」な考えなのさ。鬼塚ちひろが「なぜ生きようとするの?/何も信じられないくせに/そんな寂しい期待で」って歌うみたいに、西尾維新はそれを小説の中で語ってるだけなんだよな。


ぶっちゃけ、鬼塚ちひろとか西尾維新がいわゆるメンヘラに受けがいいのも、たぶんその辺に答えがあるんだろうと思う。別に彼らが提示しているのは新しい価値観でも何でもないんだよね。古くから人間が思っている原始的な価値観そのものなわけで。まあ、ぼく自身、この価値観に相対するような答えはあいにく持ち合わせていないんだけど(というか、全存在の無価値と無意味は否定しきれないと思っているんだけどね。ただ、否定的できないことと、全存在の価値や意味が存在しないこととは別だから、個人的には生きているうちにそのうち見つかるのかなと思っている)。存在の価値とか意味とかは、そもそも人間の評価の問題で、それは自然科学的に外にあるものを発見していく対象ではないとは、思ってるけど。

生きる意味はないかもしれないけど、死ぬ時に定義づけられるようにそれまで精いっぱい生きるのがぼくの足りない頭で考えてみた答え、なんて言っても、誰も納得してくれないんだろうなぁ。ぼく自身、死ぬのがいや、もっと生きてたい、っていう感情から、論理的な帰結よりも、結論ありきで修正を行っているのは良くわかってるし。でも、そうやって考える以外にそこそこみんなが納得してくれそうで、その場を取り繕えそうで、ぼくが議論から逃げ出せる隙を作れる考え方はないんだよなあ。


結構懐かしい曲ばっかりなんだけど、40:00位から始まる「sunnyday sunday」が特に懐かしくて。
ベタなの大好き。

こんな書いてたら3:30・・・
まあ、ぼくがここまで書くほどの影響力が西尾維新にはあるってことですよ。はい。


<追記>
いや、なんか就活でもよく、存在の意味とか価値とかを問うてくるような質問が多いように思うけど、ソレ系の質問はうまく返せる気が全くしない。そこで「意味がある」系の答えを出すことが自分に社会性があることを示す契機なんだろうけど、いくらでも突っ込まれそうだしなあ。鬱だw