相対的価値観とその裏

会誌書いてると思うんだけど、何に価値があるかなんて相対的なもんだよね、っていう事実に直面して逃げたくなるんだよね。結局考えても発展的に解決できるような方法は思いつかないし、考えを投げ出すよりも考え続けるほうが思考経済的にははるかに有害だから考えるのめんどくせ、ってなるわけ。

このブログでも腐るほど書いてきたんだけど、何に価値があるかなんて個人で決めることで、他から与えられるようなものじゃないわけで。んで、会誌みたいに「この作品に対して、私はこんな風に思います!」っていうことを、いろいろな言葉で持って伝えることは、まさしく前述の考えに従って自ら物に対する価値を自分で決める姿勢ってことになる。会誌を作る・文章を書くっていうのは、そういう意味合いを持つ作業なわけ。

そうであるとすれば、他人の選んだ価値と自分の選んだ価値とは当然違う。たとえば、自分ではよくできた文章だ!って思ったとして、それがほかの人に評価されないってことも、当然ありうる。でもそれは仕方ないことじゃないかな。で、そういう意見の相違が起こったときにどうするのがいいのかな、ってことなんだけど。

あるものを選択してそれに一定の価値をつけるということは、一方ではあるもの以外は選択せず、また、選択したものには付与した以外の価値をつけられないということを意味するんだけど、それってよく考えてみると、自分で選択した価値にはまり込んでくことだよね。もしそれに意見の相違がなかったら、それは自分の意見にオナニー的に閉じこもってるままだよ、多分。だから、自分と違う意見を取り入れていくことは絶対に必要。でも、そこで自分と違う意見に全面的に従ってしまったら、それはそれで批判者のオナニーだよね。そんな簡単に撤回するなんて、自分の選んだ価値って、その程度のものだったの?って言いたくなるし。だから、あくまで自分の選んだ価値はそれとして大切にしながらも、試行錯誤していけるかが問題だよね。異なる価値に隷属せずに、かつ相手の価値を認めて、発展的に解消する、そういう平均台の上を渡るようなぎりぎりのラインで頑張ることが大切だと思う。もちろん、既存の価値をうまいことアレンジしてみんなから無難な支持を受けるっていうのもわるかないけど、そこで安住してたら成長ないし。

これは別に何も会誌だけのことじゃないと思う。
世の中だって、本当に価値のあるものがなになのかわからなくて、迷走している状態じゃん。数十年くらい前だと、みんな似たような生活してたのに、今じゃ全然違うしね。大学生一つとっても、結構各自の選択する価値がばらけている感じがするけど。
実例を挙げると、研究室の女性の先輩で「恋空」が好きな人がいて、「すごい泣ける」って言ってはばからないんだけど、ぼくなんかは「あんなのに泣けるとかまじすげー」って思うんだよね。実際に恋空も読んでみたけど、ぼくの感想はハードカバーの本に金出してまで読むべきもんじゃないよね、魔法のiらんどで無料で読めばいいじゃんって感じだった。その先輩とぼくとは多分まったく違う価値観を選んでいるわけ。お互いの価値観を知ろうともしないし、知ろうとも思わない。そういう関係に普段はあるわけ。それは世の中の恋空に価値を見出す人と見出せない人に見られる関係にそのまま当てはまるものだと思う。
まだそこまでならいいんだけど、ひどい場合になってくると、自分の価値が正しいことを示すために相手のことを馬鹿にするんだよね。ネットでスイーツ(笑)って煽ったり、F1層がオタクうぜえって言って露骨に存在を無視したりするみたいにね。そこまで来ると、単なる自分の価値観しか信じられないアホ同士の煽り合いだよね。それはそれで面白いんだけどさ(笑)
でもそんなことやってても、意味ないことでしょう?

まとめると、どうせなら少々の意見の相違を食らってでも自分の価値を保ったうえで、意見の相違をきちんと聞きながら試行錯誤を繰り返していくのがいいと思うけど、っていうのがぼくの意見。


今までなら、世の中がいろいろなモノの価値にしろ生きる意味にしろ教えてくれたんだけどね。今はもう無理。教えたと思いこませるには、みんなの意識が成長しすぎた。そうである以上、今は自分で自分の信じる価値を選択して、それについての責任は自分で取るしかないわけだよ。だからこそ、自分の意見を磨くために試行錯誤が必要になってくる。そういう面では、今までの社会よりかは、はるかに自由な思考を持つことができるんじゃないかな。パターナリズム的な「他の上位の者から何かを与えられる」中で生きてきて、これからもそういう環境で生きていきたいというなら苦しいかもしれないけどね。自分の頭で考えることができるのなら、自由な選択が与えられるのはいいことだと思うけど。結局、考えることができる人と考えることができない人とで2極化が進むかもしれないけど。また能力による格差か・・・どうしようもないなあ。

最後にちょっとした注意だけど、ついつい価値相対主義の考えをとると、「自分とほかの人の価値観はまったく違う」って考えになりがちだけど、それは思い違いでしかないということに気づくべきだよね。
恋空に価値を見出さない人でも最終兵器彼女に価値を見出すことがあるみたいに、セカイ系的なモチーフという共通点では価値観が共通することもあると思うんだよね。むしろ価値観が違うと思っているのは当の本人たちで、他のまったく関係ない人たちからいったら結構にているじゃんってこともあるかもしれないし。っていうのも、そういうモチーフとかって、その当時の世相とかを反映したりするものだから、その時代に生きているっていうだけで価値観に共通性がみられたりするもんだし。異なる価値を選んでいるようで、実は裏では結構似通っていて、空中から見たら点対称のパラレル構造でした、ってことも結構あり得る気がするんだよね。

だからこそ、人の意見をを聞いて取り入れつつも試行錯誤することは意味があるんだよね。もしかしたら、自分たちが壁にぶつかったときに答えがわかるのは、案外違う価値観の人かもしれないし。



ここまで言っておいてなんだけど、この意見は試行錯誤をする個人を前提にしているという時点でかなり求めている個人像のハードルが高いんだよね。現実にはみんながみんなそういう人じゃないからなあ。それでもぼくが、個人が自発的に努力しようとしたらできるような方法を模索しているってことは、他人が頑張ってくれるって信じてるってことなんだろうな。言いかえれば、他人に期待しているってことだよね。自分自身のことをものすごくいい人だと思いました(笑)え?おせっかい?