思いつき整理

えーっと、いろいろあってブログを書くのが億劫になりつつあります。でもこの時間にブログを更新しているのは、昼寝をしたらゼミをサボってしまって時間計画が狂っちゃったからです(笑)

さて最近とってもよく寝ています。そのおかげか、新型インフルエンザにかかった少なくとも5,6人と接触しているのですが、ぼくはかかっていません。睡眠の威力はハンパないです。

で、寝ているときに頭の中をうろうろとしながら思いついたことをメモしとこうと思います。自分がわかればいいだけのメモだからねー


将来のことなんだけども、僕みたいな地方から東京にきました!っていう人は地方に帰るのか、東京に残るのかっていう結論をいつか下さないといけないわけですよ。東京にずっと住んでます、ってひとは分からない話なんだろうけどさ。そう考えた上で、地方と東京の構造を考えてたんだけど、一般的に考えられてるような「東京→地方モデル」って成り立っていないんじゃないかなって思ったわけ。
漠然とした意識として、今までぼくの中には地方っていうのは東京の劣化コピーでしかなくて、東京っていう大きなモデルがあってその延長に地方モデルがあるんだと思ってて、それは結構みんな思っていることなんじゃないかなあって思ってたんだけども、現実はそうじゃないのかなあって思ったわけです。考えてみると、大きなショッピングセンターとかができてからこしできている、地方民の日曜日にはジャスコに行って大抵の物欲を満たして生きているみたいな生き方って、東京都心ではできないわけですよ。地方ではどこでもできちゃう。そういう意味ではどこの地方でも変わらない。地方はある意味均一化しているのです。今になっていわれている地方の特性は実生活にはほとんど表れないし、結局その特性もネット網とか大型ショッピングセンターとかの均一化されたものの上にあるだけだと思ったりするわけです。

東京はいろいろな所からの人が来てて、そういう人たちが集まれば均一化しそうなもんなんだけど、かえってそれの方が「東京らしさ」を生み出していて、地方のあり方とは全く違うようになっているような気がします。東京っていう大きなモデルの劣化コピーとしての地方ではなくて、もはや東京というものが求められているモデルと地方が進んでいるモデルは全く別のものだし、そこに住んでいる人の意識もまた、結構違うものだと思います。


さて、それで、将来のことを考えてどっちのモデルを自分は選択したいのか考えるわけです。

東京か地方かの居住の選択には、アメリカか日本かの選択のほどには法律の壁や言語の壁はありませんよね。割合にスムーズです。となればどちらが自分により適しているかによって変わってくるのでしょう。
ただ、そんな簡単には決まらないのです。単純に仕事をするだけなら東京モデルも有りだとは思いますけれども、例えば子どもがいたらとか考えると、それはほんとに幸せなのかどうだろうか?って考えてしまいます。

将来のことは不確定要素が多すぎますし、運もありますので、実際のところなるようにしかならないとは思いますが、そういうことを考えるせっかくの機会なので現状を認識した上でいろいろ考えてから決めたいですよね。決められないからといって何時までも先送りをし続けるわけにも行きませんし、判断として不十分になりそうでも判断をすることが必要です。

そこで判断するためのフレームを決めることが大切なんだと思うんですが、そこで「自分でここだけは譲れない」っていう部分を決めて、それをもとに決めるべきだと思うんですよね。なんともネガティブではありますが仕方ありません。


ぼくは個人的には将来のことを決める時に読まされる本は、「将来の情報提示→現状の情報の収集→判断方法の提示→判断フレームの作成→いくつかのパターン」を考えさせるようにして欲しいなあって常日頃思っているのですが、いつまでたっても「成功した人たちの輝いている姿」とか「やりがいがあります」とかいう記事を載せているだけで、もうちょっと工夫して欲しいなあって思っているのですがなかなかそういう本て売ってません。

そういう内容の本なら買うんですが。そうでないので買えません。


と、ここまで書きましたが、結局は現実逃避です。あしからず。