こんなご時世ではございますが

みなさまこんにちは。お元気に過ごしていらっしゃいますでしょうか。
半年近く前に更新してからというもの、更新しようしようとは思いつつも筆が重く、ブラウザーを閉じる日々を繰り返していたら、こんなにも更新期間が空いてしまいました。

こんなことになるなんて、一つ前の記事を更新したときには思ってもみなかったんですが・・・

前置きはさておき、まずは、この度の地震で亡くなられた方々、被災された全ての方に、心から哀悼の意とお見舞いを申し上げます。
一日も早く立ち直り、この脅威を克服なさる日が来ることを祈っております。


さて。節電しろと怒られそうではありますが、いろいろ書いておきます。

極めて個人的なことですが、僕は来年から東京で働くことになりました。
また東京です。多分2年くらいはいると思います。
あと、ぼくが配属されているところは、過去2年くらいは新卒で配属された人がいない部署で、仕事内容とかは正直よくわからないのですが、激務くさいのです。

ちなみに早速人間関係上のややこしい闘争に巻き込まれてしまう感じも無くもないでs
もういや。

なのでブログも今まで以上に更新しなくなるとは思うのですが・・・
まあ、そんなこんなでも適当にやっていこうと思っているので、宜しくお願いしますね。


どうでもいいことばっかり書いているとさすがに怒られそうなので、ちょっとは有用なことも書いておこうと思います。

・経済的基盤を固めよう
社会人になってまずやるべき事は、お金を貯めることだと思ってます。
お金!何と魅惑的な響きだろう!
まあ、それはさておき。どうでもいいですね。
で、最近暇過ぎると嘆いていた友人が、あまりに暇すぎたらしくて、我々が60歳から80歳まで月60万円を使えるようにするには、23歳からいくらを貯蓄していけばよいのかという計算を簡単な計算式で計算してくれたのです。
ちなみに、いくつか注意する事項があります。本当は年齢別の人口構成とかも必要なんですが、その時は入手できなかったのでパスしました。あと、国民年金や厚生年金は考慮してません。もし各種制度がぼくが60歳から80歳になるまで存続していたとしたら、もっと沢山お金をもらえるはずです。

で、結果からいうと、預金だけをするのなら、23歳から毎月休まず12〜13万円を預金し続けなければいけないということになりました。
これは、若いうちはかなりキツイのではないでしょうか(特に薄給のぼくでは)。

これをもっと利回りをよくするような貯蓄方法をとるとだんだん1月あたりの貯蓄額が下がっていきます。
ちなみに新興国の株式のみに投資していく(ETFとかを使うとかなのかな)のだとすれば、平均的な成長率からすると、3〜4万円を貯蓄すれば目的を達成できるということになりました(2月ごろの為替レートで計算)。

もちろん、これらの貯蓄方法のうち、どれか一つを選択するというのは確定的にアホですし、バカでもあります。そういう人は死んだらいいと思います。←言い過ぎ。
自分の取れるリスクとの兼ね合いから、ポートレートを書かないといけないんでしょうね。
凡庸ではありますが、様々な方法を併用する方法でないとだめなんでしょう。
リスク分散ですか。。。
これ以上については、ぼくがどうこう言えるレベルを超えたテクニカルな話になってくるので、ぼくの話なんて聞いても仕方ないと思ったり。
うーん、がんばろう。


・自分の能力を伸ばそう
若いうちの能力というのは、非常に高い価値と置き換えることができます。
逆に死ぬ直前の人物の能力というのは、前者に比べれば、それほど高い価値に置き換えることはできません。
幸せなことに、ぼくはまだ若いのです。
なので、能力を伸ばす方向にも努力をするべきなのです。
それが価値を増大化させるからです。

とか何とか言ってると、年をとると現状維持がもっとも価値を増大化させるということに気づきます。
地震後、なんとなく若い人達の一部は地震により引き起こされた様々な制約から今の社会にどのような歪みが存在しているのかということを必死に解き、あるべき社会の形をどうこうなんて話をしている一方、おじさんおばさんたちは今までの仕組みに戻る方法を必死に考えているということを考えていたりしているような気がしていたのですが、それもまあ、的はずれな予感ということもなくもないのかもなんて思ったりします。


・「安定」なんて存在しない
世の中で生きていく以上当たり前かもしれませんが。安定なんて存在しない。
時々嫌になるけど。
でも、そうならそうでうまく立ち回っていくしか無いわけで。
本当にナッシュ均衡が最適解なのかどうか、それすらもわからないのですから、まあ自分の出来る限り、最適解と思ったものを選択するしかないなあと思う次第。


・技術革新が全てを変える
地震を見ててそう思いました。


それじゃ、また。

海外旅行に行ってきて感じたこと

お久しぶりです。
実は海外旅行に行ってきました。ロサンゼルスです。

向こうに行ってぼんやりと思いついたことがたくさんあったので備忘録替わりに書いておこうかなと。

向こうに行って一番感じたのは、日本との都市構造・とりわけ交通構造の違いでした。

あっちって車移動ばっかりなんですね。本当に。
だって車移動が楽だし早いし安いし。フリーウェイはタダだし、路駐もし放題だし(道端を歩いてる途中で警官に切符を切られそうになってるおばさんを見かけたんだけど、強い調子で弁解したらお咎めなしになってたし取締り自体超ユルイのかも)、どこ行っても駐車場は広いし、道も広いから適当に運転しても余裕だし。

それに引き換え公共交通機関のひどさと言ったらなんだこれっていうレベル。
まず時間通りに来ない。あと基本的に駅に時刻表がない。それはバスも地下鉄も一緒。
確かに安いのは安いんだけど(メトロバスの場合どこまで乗っても1回の乗車につき1ドル50セント=120円ほど。端から端まで乗れば20kmを120円で移動できる。)なにしろ設備がボロい。椅子が硬くてケツが痛い。そしてバス停に停まるときは毎回急ブレーキかってレベルのきついブレーキ。あれでは立ち続けるのは相当疲れるぜ。


そもそも向こうは、もともと土地が余ってた時代の名残からなのか、みんなおおらかな国民性なのか、一つ一つの建物を平たく立てて、一つ一つの領域を横に広くとっちゃうんですよね。だから東京であれば山手線の内側どころかに全部収まっちゃうような物がだらだらとひろーく横に連なっちゃう。もちろんその分だけ一つ一つはゆったりとできてるけどね。

そんなこんなで、別になんか論理があるわけじゃないんだけど、こういうアメリカの都市って日本の都市とは成立できる大きさに大きな差が出てくるような気がしてきたのでした。
現に日本型の都市とアメリカ型の都市とでは1000万人以上の差が・・・しかもなかなか埋まらない・・・参照→http://www.demographia.com/db-worldua.pdf:Demographia World Urban Areas and Population Projections


みんなが電車で規則正しい動きをして隅々まで張り巡らされた道路でドアツードアで荷物が移るような日本の都市。アリの巣みたいですね。

日本人は「動物化」してアリになりましたとさ。

おしまい。

「不器用な」人のための就活方法

 曲がりなりにも就活を終えることが出来た身として、ぼくのような人間がどうしたらなんとか就活を終わらせることが出来るのかということを考えておきたいと思います。
 先に予防線を張っておきますが、今から書く事は独断と偏見に満ち溢れている上に、諸事情により(原因については過去の日記参照)いわゆる就活のプロセスを経験したのは2ヶ月ほどに過ぎませんし(しかも後半1ヶ月は1ヶ月の間に2社の説明会に出席し、2社の面接に進んだに過ぎず、ほとんど就活をしていない状況でしたし)、インターンやOB訪問は一切したことがありませんので、圧倒的に経験が不足しており、内容もほとんどの方には参考にならないと思われます。その点は十分にご注意ください。
 あと、この話は基本的に非リア向けです。リア充の皆様はお帰りください。リア充の人はこんな文章を読んでる暇があったら他のことでもやるべきです。時間は有限なのですから。

 話を書いておく前提としてぼくのスペックを簡単にまとめておきたいと思います。
・男、引きこもり(外に出るきっかけがないと外にでない)
・MARCH,民事訴訟法ゼミ、TOEIC600点(←書くだけ恥さらしなので書かない書けない)
・このサークル4年目(かと言ってまとめるべき役職にいたわけではない)、アルバイトは塾の先生(←完全に個人プレー)
ここまでまとめるとよくわかるとは思いますが、これは社会が求める人物像としてよく言われる「前に踏み出す力(=主体性)」・「考え抜く力(=地頭の良さ)」・「チームで働く力(=協調性、リーダーシップ能力)」*1のうち、「前に踏み出す力」と「チームで働く力」を身につけるような経験をほとんどしてこなかったことが分かります。
 
 なぜそういう経験をしてこなかったのかというと、そういう経験をしたいと思わなかったからということにつきます。
 というかもっと言ってしまうと、大学生がやっておくべきとされているようなもの、つまりバイト仲間との熱心な交流とか、合コンとか、いろいろ・・・と枚挙に暇がありませんが、そういうものに対して極めてヤル気がなかったのです。だって興味わかないし、つまらなさそうだし*2。変な喩えかもしれませんが、セロリは不味いから嫌いという人が、セロリを食べてこなくても生きてこれたので食べませんでした、というレベルの話です。
 要するに「世の中で大学生たるものこういうモノに興味を持っていて、こういう経験をしているものだ」みたいな規範に自分を合わせる気が全くしなかったと、そういうことなのです。
 でも、こういう人って、どの世代にもどのライフステージにもいるような気がします。小さい頃から、みんなの興味関心事のメインストリームから外れたことにしか興味がわかなかった人、そういう人っているんじゃないですか?みんないろいろ遊んでる中で一人自分の好きなことをやっておきたいタイプ、どちらかと言えばぼくはそういうタイプの人間でした。社会的に要請されているモノと自分の興味関心の湧くことが一致しないのです。極端に言うと、社会的には要らない子なのです。ここではそういう人を「不器用な人」*3と呼びたいと思います。

 一方で、「世の中で大学生たるものこういうモノに興味を持っていて、こういう経験をしているものだ」みたいな規範を受け入れ、自分の本心からそういうモノを楽しんでいる人もいるようなのです。そしてそういう人たちは、どうもネットでリア充と呼ばれている人たちと重なるような気がします(そもそも非リアにリア充の気持ちはわかるはずも無いのですけども)。こういう人はぼくから見ると、社会的な要請と内面の欲望がうまく噛み合った「器用な人」なのです。
 2chなんかで「リア充は就活がうまく行く」「非リアは就活はうまくいかない」みたいな話がよくされていますけども、それが意味するところは自分の内面を社会的規範に一致させていくことが出来る人(=リア充)は社会の複雑なルールもまた理解しやすいというところなんじゃないかなと思ったりします。
 非リアの中でもぼくみたいなタイプの人間は、そもそもあんまり人間に興味がなかったりするので、この人がどういう人で、どういうことを言っておけば機嫌が良くて、みたいなことを考えるみたいな習慣が、そもそも無かったりします。そういう人だと、社会に出ていきなり複雑な人間関係に直面すると、「なんだコレ意味わかんねえ」となるわけです。だからバイト先とかでよくある「人間関係の基礎は完全に利害関係のみで決まるが、それでもお互いなんとなく寂しかったりするので仲良くはしたがっている」みたいな関係性を頭では理解できても、心ではさっぱり理解できなかったりします(特に後段がw)。
 多分これっていわゆる社会人基礎力を養う前提が欠けているとかそういう話になってくるんじゃないのかなあって思うんですけども。どうなんでしょう・・・

 でもですよ、「不器用な人」であってもお金を稼ぐすべを見つけておかないと死んでしまうわけです。生活保護だってそんな簡単には降りないご時世ですし。
 ではそんな「不器用な人」はいかにして就活をするべきなのでしょうか。

<自己分析>
 多分自分が「不器用な人」ということがよくわかっている人であれば、自己分析で最低限知っておかなければならないことは分かっているということで、自己分析の半分くらいは済んでしまったようなもんなんです。後は『絶対内定シリーズ』の自己分析編でも使ってサクサク自己分析を進めておきましょう。
 ここで注意しておきたいのは、自分が本当に「不器用」なのかどうかをよく見極めることのような気がします。リア充になりたいという気持ちが強くあるのなら、現在「不器用」であったとしても「不器用」用の就活をすることはあまりおすすめしません。また、リア充に伴なう摩擦や自己嫌悪が嫌(これは正当な理由だとも個人的には思いますが)という理由で、自分を偽って非リアを装っているのなら、非リアをなめているのでさっさとリア充への道をおすすめします。
 なお、これまで生きてきた中で何度もリア充になるチャンスがあって、それに何度か挑戦してきたにも関わらず、やっぱりうまくいかないという人は根本的にリア充とは人間性が違っているんじゃないかと思ってしまうので、リア充的就活を送るのはやめたほうがリスクは低そうだと思います。

webテスト
「不器用な人」は大抵一人でいる時間が多いはずなのでその時間を対策に回したらいいと思いますよ。就活における唯一のいい点ですね。

<企業選び>
 「不器用な人」の就活では企業選びはかなり大切なような気がします。というのも、器用な人だとぶっちゃけどの業界に行っても割合にうまくいくんじゃないかと思うんですが、逆はうまくいかないような気がするからです。根本的に器用な人のほうが世の中には多いですからねw
 なので、やりがいや年収も大切ですけど(構造的に賃金が低くなってしまっている業種の企業の場合、そのことを明確に自覚した上で入社しなかったせいか、賃金が上がらないことを会社のせいにするとか平気でしてしまう人を見ると、自分で自分を不幸にしていると感じてしまいます。自分の仕事に誇りを持つためにも絶対に年収は大事なのはよくわかります。)、自分がその企業にマッチするのかどうかということを他の人よりも強く意識するべきだと思います。
 具体的にどの業種を避けろとか、どの企業がよさそうとかという話は、自分で確かめるべきことだと思うのでここでは書きませんが、説明会・面接に出てきている社員の方や説明会・面接に集まった就活生がどんな人達なのかをよく見ておくと、自分に合った業種・企業がどこなのかわかるんじゃないかと思います。あと2chの情報も読み方によっては組み合わせで使えるので利用するのもいいと思いました。

<ES>
 ES。多分これを書くのは結構辛いんじゃないでしょうか。だって、そもそも「不器用な人」は一人でコツコツ頑張った系の話が得意なんですよね。「前に踏み出す力」と「チームで働く力」をガツガツ身につけてきたわけではないのに、ESではそういう内容が求められてしまうものが多いもんだから、その面ではやっぱり圧倒的に不利になってしまう。この問題をなんとかして解決しないといけません。
 一つの方法としては、エピソードを捏造するという方法があります。確かにそういうエピソードを捏造するのは簡単なんですよ。ただし、「不器用な人」は不器用だから、その性格の部分がESの書き方や文面に出てしまって、ESの文章内容はリーダーシップ能力を訴えるものであっても、文面からはむしろ落ち着きのある、個で完結しているような性格だという印象を受けるということのほうが多いのではないでしょうか。しかもESは通過したらそれで終わるわけじゃないですよね。ESを元にした面接を何次も受け、面接官を欺き続けなければいけないわけです。そこまで出来たらもはや立派なもんですけど、それが出来るような人が「不器用」なわけがないので、真に「不器用な人」にはあまりオススメしません。
 じゃあどうするのか、と言われると中々に厳しいところではあるのですが、いっそ開き直って一人でコツコツ頑張った系の話でESを書き続けるというのはどうでしょうか、という答えになりもしない方法をオススメします。勝率は半分もないかもしれませんが・・・リスク高いですけど・・・
 ここの判断は、どちらをとってもリスクが高いことになるので自分で良く考えて選ぶのが吉です。よくわからなくなってきたら、「どーせ自分は『不器用』だし、だからそもそも生きてくのもリスク高いし」くらいに開き直って、そのかわり死ぬ気で真剣に数をこなすというのもアリな気はします。
 
<面接>
 「不器用な人」にとって面接はかなり辛いです。多分。*4
 この場合、もう当たって砕けろの精神で場数を踏むしか無いように思います。自分の話したいことを予め文章にまとめておいた上で一定時間内にしゃべる訓練をすれば、そのうちに社会人やエライ人と喋ってもなんとかなってくるんじゃないでしょうか。こればっかりはなれるまでに個人差があると思いますし(10回面接を受けて面接に慣れる人もいれば、50回以上受けて初めて慣れる人もいるんじゃないかと思うし)、自分の成長を気長に待ちつつ自分の部屋でも一人で喋る内容をハキハキ喋ってみるとかの訓練を細かい時間の間を縫って重ねるべきなのかなと。
 面接は、最初のうちは特にいろいろ考えないといけないことはあるし、気をつけないことはあるし、これだけは喋りたい!ということは決まってるしで、気持ちだけが混乱したり焦ったりでうまくいかないことも多いと思います。人によってはこれらに人見知りなども加わって、本当に大変になりえます。なのでまずはその中でも一番心がけておくべきこと1つに絞って、面接練習をやってみるのも有効な手段かもしれません。その1つとしておすすめなのは問に対して的確に答えを返すことが出来るかということです。面接での基本中の基本なのだろうとは思うのですが、実際にやってみるとなかなか難しいものです。でもこれが出来るようになると、自分の答えに自信が出てきて自然に表情や姿勢も良くなるような気がします。


ここまで、一就活生としていろいろ書いてみたのですが、よく読んでみると何かを言っているようで何も言っていないのではないか(というか、不器用という言葉を使いたいがために無理矢理に就活の話を持ってきたのではないか)と思えるほどに、就活生への実戦的アドバイスは皆無になってしまいました。その点は申し訳ないんですが、多分就活経験が未熟なぼくが何かを語るよりも、本屋さんに就活本の類で非常に使えるものもありますし、今の時期ならまだまだ4年生の就活を終えた人たちもそれほど就活の時の体験を忘れずにいるはずなので、そちらのほうを参考にしてもらえればと思います。*5なんやかんや言って成功者に訊くのが一番いいと思いますよ。

あと、結局いろいろ努力したけれども内定を頂けないという場合、非常に残酷なようですがその勝負は自分には適していないのかもしれません(ぼくはこれまで様々な勝負で負け続けているので、どこで自分はもっとも幸せになれるのかという大きな目的にまで戻って自分の負けを正当化することには慣れているし、「いやーあの時もうちょっと頑張ったらもっといい結果になったでしょ」と「いやいやどう考えてもあの時はあれが精一杯だったし世間知らずだったし結果的には今の形でよかったんだよ」っていう2つの狭間で微妙な自意識を持ち続けながら生きていくことには、あんまり抵抗を感じないので、この結末は割合に簡単に受け入れられるのですが)。その場合は、いかにして競争から離脱・撤退するのかが大切になります。こっちはまた気が向いたらまとめます。

最後に一足先に社会人として活躍なさっている多くの方へ。きっとこのブログに書いてあることなんて社会人から見ると社会を知らない学生風情が知ったような顔してなんか書いてるぜwって一笑に付すような内容だということは自分でもよく自覚してますし、多分ぼくも自分が社会人になってこのエントリを見たら失笑すること間違いないんですが、よければ一笑に付した後で構わないので、どの辺が勘違いなのか、そして「不器用な人」が幸せに生きるためには本当は何をよかったのかについてアドバイスをいただけるとすごく助かります。よろしくお願いしますね。

*1:参考:経済産業省:企業の「求める人材像」調査の結果について〜社会人基礎力との関係〜http://www.meti.go.jp/press/20070312001/20070312001.html

*2:というか、バイト先の飲み会とかそういう雰囲気になることもあるけどすごくつまらないし、周りの人間を見てすごくイライラが募るし、価値観の差ばかりを感じて「明らかにこの集団にいてもぼくは幸せにならない」と感じてしまうわけで

*3:自分でもこの定義付けは曖昧に過ぎ、ぼんやりしすぎているのはよくわかっているのだが、人間をそんなに簡単に類型化することも出来ないわけで・・・(←自分で理論的に精緻に詰めてない言い訳)イメージとしては「あーそういう世の中にあんまりなじまないタイプね、確かにクラスに1人2人はいるだろうね」ってみんなが思うような人なんですが。そういう人を想像してほしいなあと。。。

*4:多分と書いたのは、実はぼくは面接を受けたところで真剣に準備をしていった会社に関しては幸い全て面接を通過することが出来たので(どことは言わないけど途中で行く気無くして、適当に準備して行ったらグループ会社の別会社の仕事内容を喋っていたことがあったりして、そこはさすがに落とされたけどもw)、もしかしたら「不器用さ」と面接テクニックとはそれほど相関性は無いのかもしれないとか血迷ったことを考えてしまったりしたからです。

*5:お礼は忘れずに。

最近読んだ本とか

関係する女 所有する男 (講談社現代新書)

関係する女 所有する男 (講談社現代新書)

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

現代の金融入門 [新版] (ちくま新書)

現代の金融入門 [新版] (ちくま新書)

はじめての言語ゲーム (講談社現代新書)

はじめての言語ゲーム (講談社現代新書)

どうもこんにちは。
最近よく本を読んでいます。

どの本も面白いのでおすすめです。一言言うとすれば「現代の金融入門」は入門ではないと思います。基本であるのは間違いないと思うんですけど、ぼくみたいな鳥頭では2,3回読んだだけでは絶対に理解出来ないので何回も読み直さないとなあと思ってます。

他にも読んだのもあるんですけど、取るに足らないものだということで不掲載。


さて、この前カラフルという映画を見てきました。

なかなかに心にグサリと来る映画でした。拒絶ということはここまで人にダメージを与えるものなのか・・・

ただ、ここで出てくるダメージは登場人物たちがそのあとの関係をまっとうなものにしていくためには絶対に必要なプロセスだったのだとぼくも考えるので、これは破壊からの再生と捉えたい。

総じてみれば、明るい綺麗な話でした。

来年からお世話になる会社を決めました

こんばんは。人によってはこんにちは。
前回の日記で唐突に就活を始めました宣言をしてみたぼくですが、今週の火曜日をもって終了させました。そうですね、実は4月末から初めて、5月末に某社から内々定をいただき、そして7月初旬に某社から内々定を頂いたという状況です。
ちょっと普通の人の就活のルートとは違っちゃってるのであんまり参考にはならないかもしれませんが、就活してるorこれからするよっていう方には少しはお役に立てるという気がしているので、もし聞きたいことなどあればじゃんじゃん使ってやってください。相談を受けるのも何かの縁でしょうから、力になれる範囲でお手伝いしたいと思います。

皆様ご協力をありがとうございました。

来年からお世話になるつもりの企業は、転勤がひどいので東日本をぐるぐる転勤しまくることになると思います。大変だなあ(遠い目)

というわけで、残りの大学生活精一杯楽しみます!

これまでのあらすじ

ここしばらくブログの方をおさらばしてました。前回の記事が3月18日。筆不精なぼくではありますが、そんなぼくでもこれは結構な時間を空けていたなあっていう印象です。まずはブログを読みに来てくれた人にごめんなさいです。
twitterのほうではほとんど毎日生存確認をしてたんですが、ブログとなるとなかなか更新する時間もネタも気力も確保できなかったりして書けなかったんですよね、とまあ早速言い訳。なんかしばらく書いてなかったうちに、はてなダイアリーインターフェイスも結構変わっていたりしててびっくりですよね。時代の早い業界だなとかなんとかひとりごちつつ。


そうですね、あんまりブログに書くようなことでもないことなんですが、いろいろ考えた上で進路変更をしました。タイミングといえば、他の人に比べれば1年近く遅すぎるし、変更自体も唐突だったので、ほんとうにいろいろな方にご迷惑をおかけしてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいなのですが、今の自分の中では後悔しない進路決定をしたと思っているので、自分の論理を通すためならいくらでも頭を下げるってことで頭を下げまくってて、ブログも更新出来なかったりしたのです。

というわけで、ぼくは大学院の進学をやめて就職をすることにしました。
もしかしたらそういう進学か就職かで悩んでいる人の力に少しならなれるかもしれません。もし不安に思っている方がいらっしゃったら気軽にご相談ください。面識なければメールでもどうぞw


本当はいろいろ進路を決定するときに、これまでのあらすじはブログとかmixiのほうに自分用メモも兼ねて残しておこうと思ったんですが、現実的には様々な人間関係のしがらみがあることや実際に顔をあわせて話さないとぼくが予期しない受け取り方をされやすい話でもあるのでやめました。たぶん気が向かいないともう書かないと思います。

ブログのほうはこれからも気の向くまま、興味に思ったことをいろいろ書くだけ書いていきたいし、いろいろ考えていきたいと思っています。そういうやり方がぼくには一番あってますし。

というわけでこれからもよろしくお願いしますね。

「サブカルチャー全般を審査する倫理機構」を作りませんか?

非実在青少年関連の話題。もうさ、正直、いろいろなところで言及されているから今更もういいよ・・・みたいな、食傷気味です・・・みたいな意見がたくさんあることは十分承知しているんだけど、マイミクのMさんと話している中で面白い話を思いついたから書いてみるよ。ちなみに、これ以降出てくる「サブカルチャーを統一した倫理機構」という組織の提案はMさんがしたんだけど、それ以外はぼくの個人的な意見だから、Mさんを見つけて叩くのはお門違いだからそれだけはしないでほしいよ。

で、ぼく自身この問題はいろいろな側面から切ることができるから、このブログの中ではどういう側面から切ってみたらいいのかよくわからなくて今まで結構口をつぐんできたことも多かったんだけど、ここでは「何らかの規制は逃れられないので、規制をどうするか」みたいな側面から論じたいと思ってる。前回の日記にもちらっとネタふりをかましておいたんだけど、ぼくはあくまで法律による表現規制は最後の手段だと思っていて、この事例では必ずしも最善の手段ではないと感じているわけだよね。そういうところから話をしたいなあ、と。

まあ、たまには法学部っぽく「当該条例が関係する事件において、当該条例の違憲審査を求め、違憲に持ち込むための戦略作り」みたいなことをやっても面白かったのかもしれないけどさ、そもそもその分野も不勉強だし、このブログはみんなで表現の自由の制限の論証を覚えて試験に受かりましょうみたいなことをやるブログでもないからね、それにおもしろくもないしね、ということでやめました(笑)twitterともネタかぶりしちゃうしね。


まあ、そんなこんなで、話を進めたいと思うわけだ。

■規制の必要性
まず今回話題になっている規制を見てみる。
漫画・アニメの「非実在青少年」も対象に 東京都の青少年育成条例改正案 (1/2) - ITmedia NEWS
読んでみるとポイントは以下のようになります。

・東京都当局が青少年に悪影響を及ぼすと判断した“不健全な作品”(いわゆる不健全図書)の販売を規制する
・暴力描写などの反社会的表現を含んだ作品への規制強化と共に、児童ポルノ撲滅運動の一環として「非実在青少年」による性的表現を含んだ作品を対象にする
・「非実在青少年」とは、漫画やアニメなどの登場人物のうち、服装や所持品、学年、背景、音声などから18歳未満として表現されていると認識されるもの、をいう
・創作物とは、漫画、アニメ、ゲーム、映画、小説をいう
・成人向けから一般向けまで全ての作品が規制対象

こんなところ?難しいよね。
つまり、あらゆる創作物の18歳以下っぽい人が暴力行為、性的行為といった「不健全な行為」を行っているシーンがあったら、販売できなくなりますよ、とらしい。文面上は販売できませんよって言ってるだけだけど、販売できなかったら印税が入らなくて大赤字になるわけだから、実質的にはそういう表現そのものを規制するのと同視できるわけだ。
ということは、この条例は表現の自由を侵害する法律だとしてとらえるべきなのだろう。

こんな規制が出てくるのはさまざまな背景や原因があるんだろうけど、海外からも「日本は児童ポルノ大国」とか言われちゃってたりしてることが背景にあって、規制を強めなきゃね、みたいな話になってるんじゃないかな・・・と推測。もっとも児童ポルノ大国というのは、創作物を含めた時の話なんだけどね。確かに、日本はほかの先進国に比べて児童ポルノに限らず、あらゆるポルノや暴力表現が氾濫しているわけで、このような無秩序な氾濫は「青少年の健全な育成」の障害となるという意見には同意できる。これを減らす必要性は高いといえる。

もちろん、ぼくは児童ポルノは法的規制の対象であるべきだし、実在の子供が性的搾取の対象になっているのは悲惨なことで救い出すべきだと思っていますよ。でも、そういう実在する人物のための法的規制と創作物内の架空の人物に対する法的規制は性格が別なわけだよね。
たまには法学部っぽいことを言うと、刑法各論とかでやるけどさ、保護法益というのがあってね。保護法益っていうのは、法律で守るべき利益ってことなんだけど、その種類には個人的法益・社会的法益・国家的法益の3つがあると言われてる。3次元の児童ポルノの規制というのは、それによって守られる利益(保護法益)は性的搾取の対象になっている子どもそのもので、個人的法益に分類される。ところが、2次元の児童ポルノ規制というのは、個人的法益とは違って、そのような表現は社会を道徳的に堕落させるとかなんとかだから規制するっていう、いわば社会的法益を守るために作られるわけだよね。

保護法益の種類が違うのに、いっしょくたに論じられちゃ叶わない。というのも、保護法益が変われば規制の態様も方法も変わりうるからだ。場合によっては、法律による規制ではなく「自主規制」といった法律によらない規制のほうが規制としてより適切な場合もある。
少しまとめると、3次元の児童の人権を現実的に侵害する行為は法的規制がより適切だと考えられるが、2次元の場合には公序良俗を維持するために規制すればいいのであるから、法的規制が正しいのかは考える余地があるよ、と。基本的に法律による規制は、規制範囲をどうしても広げてしまう方向になりやすい。今は準児童ポルノを規制しますとなっていても、それがだんだんと他の子供に対して見せたくない表現や、社会で隠しておきたい表現にまで拡大することだって十分考えられる。道徳的・倫理的な内容を法的規制の対象とするのは、単純なようで実は結構厄介だ。


■規制目的について・「健全な育成」とは
上段で考えてきたように、今回の条例改正案の目的は「青少年の健全な育成」にある。彼らは以下のように主張している。
http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2010/02/20k2h102.htm

つまり、彼らの「健全な育成」とはこうだ。大人が定めた「青少年の健全な成長にとって不適切な情報」については、インターネットのフィルタリングや創作物に対する規制を通じて、青少年がそういった情報に触れないように社会を設計する。そして、「不適切な情報」のない世界で青少年はのびのび育つ・・・
そうだとすれば、今は表現規制の対象が「非実在青少年」の暴行とか強姦とかの行為を規制しているだけのものが、創作物内での大人の暴行や性的行為といった行為すべてを青少年の目の触れないところに覆い隠してしまう方向に規制対象が拡大するのもありがちっていえばありがちな話なんだろうと思う。

確かに、ぼく自身幼稚園や小学校に通っているようなまだ小さな子がいわゆる18禁表現を見るというのは好ましくないと感じる。例えば、自分の3歳の子供が獣姦動画を見ているような世界(今の社会はそれも十分に可能なのだ)は誰が望ましいと思うだろう?
しかし、いずれ彼らが旅立とうとしている大人の世界は、「青少年には与えてはならないモノ」で満たされている社会なわけだ。そこには隠されているさまざまな不合理な事情が横たわっている。利害関係や裏切り、男女間のもつれ、望まれない妊娠、どうあがいても乗り越えられない能力の差、貧富の差、精神レベルの差、国際的な労働力・性的搾取の構造・・・挙げていけばきりがない。そして、そういったモノを駆け引きの対象にしたりすることで、うまく社会の中で成功を収めることができるという部分もある。
ぼくは青少年の健全育成とは、そんな現実社会の問題をひた隠しにすることで作られる温室に彼らを置くことだとは思っていない。そもそも、子どもは好奇心の塊だし、大人が思っているほど恐らくバカでもない。彼らの好奇心・判断能力に応じて、さまざまな問題や不幸が渦巻く現実の社会を直視させること、そして彼らが彼らの判断能力に従って取捨選択し、社会に対する彼らなりの判断を出し、そんなどうしようもない社会かもしれないけどそれと向き合って日々生きていくことを学んでもらうこと、それが青少年の健全育成なのではないか。その結果、子どもたちの一部が「青少年の健全育成にふさわしくないもの」に染まったとしても、それは道徳や倫理の問題であって、社会設計や法の問題ではないと思う。もちろん染まってしまうのを食い止めるための努力は必要だが、それは「不適切な情報」を触れさせない社会にしたとしても、要らなくなるわけじゃないだろう。

と、まあ、成人してから日が浅く、子どもを持たないぼくとしては、自分の実体験として子どもの好奇心と判断能力に従って「不適切な」情報も段階的に徐々に開示していくべきだと思うわけだ。
ここまで来ると、それなら現実社会でいくらでもそういう現象に遭遇できるんだから2次元で触れさせる必要なんかないじゃんって考える人もいるかもしれないけど、現実社会で青少年のうちにそういうことに触れると、場合によってはそのあとの人生で回復不能なほどのダメージを負ったり、利害関係に拘束される恐れがある。その点、創作物ならその恐れはない。つまり、ぼくが思うのは創作物は世界を知って耳目を広げる有用な手段になるということだ。これを奪ってしまうのは問題だろう。


■あるべき規制の形とは
ここまで見てきたように、創作物上においても「青少年の健全な成長に不適切な情報」は無秩序に氾濫していて、規制の必要性は高いし、国際的な圧力も高まっている。かといって、創作表現の重要性や「健全な成長」の解釈、創作物の場合には自主規制が行うことが比較的容易であることから考えると、法律によって一律的に規制を課してしまうのは望ましい規制だとは思わないし、社会的な損失も大きいし、取り締まりのためのコストも高くつくんじゃないかなと思ったり。

さて、どういう規制が望ましいんだろうか?

何回も繰り返しているけど、規制すると言っても法律による規制がすべてではない。自主規制などの法律によらない規制方法も存在する。ただ、その自主規制が現状においては必ずしもうまくいっていないというのもあって、規制対象となるような表現が氾濫してしまっている。この現状に対してどう対応していくかを具体的に解答しないと、法的な規制は不可避のような気がします。

そこで、タイトルのような「サブカルチャー全般を審査する倫理機構」を作るのはどうでしょう?出版社とか作者とか学者とか巻き込んでやってみたらどうでしょうか?思いつきなので、詳しく考えているわけではないので、もっと具体的に答えろと言われると超困るんだけど、まあさ、そこは実務をやってる人たちじゃないとわからないところだらけだし、ぼくの想像力の限界を突破しちゃってる話だよね。
現状では、アニメの審査はBPO、ゲームの審査はソフ倫、と商品によって自主規制団体が変わっているから、「そのあたりを統一した大きな自主規制組織を作ってゾーニングもしっかりするから、法制化は勘弁してくれないかなあ」ぐらいが落とし所にならないかなあ、なんてね。

で、高河ゆん先生もtwitterで「ゾーニングをしっかりすればそれで十分」っておっしゃってたのは、まさにその通りで、組織が「ゾーニング」をしっかりすればそれで充分だと思うんだよね。どのようなゾーニングをするかは出来る限り表現の自由を保証したうえで社会通念に従うとしか言いようがないんだけど、例えば、「全年齢対象」・「13歳以上」・「15歳以上」・「18歳以上」とかと、「親の承諾書の要否」あたりを組み合わせるとかどうかな。
でも、これにも問題は多いんだけどね。

■自主規制の問題点
いろいろあるんだけど、問題の一つは自主規制よりも法制化を求める人たちがいるってことだよね。そのせいで自主規制には持続可能性が不十分。
もちろん今法制化を進めている人たちもそうなんだけど、問題はそれよりも子供を持つ親の多くが法制化を求めることになる恐れがあること。

まあ冷静に考えてみれば、親の気持ちはよくわかるんですよ。小さい時から子どもを見ていれば子育ての中でひやっとしたことも一度や二度じゃないはずで、子どもの判断だって十分信用できるとはいえないわけで。そしてやっぱり自分の子どもには「大人の世界の汚いとされるような世界」は見せたくないよっていう気持ちはよくわかるし。自主規制団体って何だか信用できないし。そもそも、子どもに「不適切な情報」を見せる裁量を与えるからには、親自身もそれに向き合わなければならないし、親自身そんな世界にどう向き合ってどう子どもに説明したらいいのかなんてわからないしね。そうなってくると、法律で『これはダメなものなんだ!』って言ってくれたほうが、子どもに対していろいろと説明しやすいしね。そりゃ法制化をしてほしいはずですよ。

たださ、だからって創作者の表現の自由を規制しちゃえっていうのはちょっとお門違いだとは思うんだけどね。

もう一つの問題は、いかにしてみんなが納得できるようなゾーニングの区分を作るかってこと。つうか、そもそもそんなもの作れるのかって話し。あるいは、作ったとしても個人にかなり裁量を持たせる形にするしかないって話し。いくらゾーニングしてもそれがみんなが不適切だと感じてしまったら、法制化への圧力はかえって強くなっちゃうしね。適切なゾーニングは、自主規制の意味を保つために必要不可欠なわけ。
ただ、この適切なゾーニングが難しいんだよね。ゾーニングなんて細かく区切れば、人の数だけ種類があるといいだろうし、どのタイミングでどういう情報に触れるのが適切かなんてそれこそ個別具体的な問題になってしまうから、なかなか難しい。多分みんなは一通り納得できる最大公約数的なゾーニングを作ると、結果として法制化したのと大して変わらない結果を招いてしまうことだってあるんじゃないかな。そこのところのバランスって超難しいんですよね。
常により適切なゾーニングの方法は探っていかないと、法制化の圧力はこれからもぽこぽこと出てくるような気がする。

確かに問題はあるんだけど、問題のない完全無欠な制度なんて作れないわけで、これは自由を保障しようとする場面では常に問題になってくる問題なんじゃないのかな?と思うので解消するのは困難というか、厳しいよね。自由と規制の折り合いは簡単につかないからさー



いろいろ喋ってはみたけど、このあたりでぼくの頭が追いつかなくなってきたのでこの辺で終了します(笑)

いろいろ考えてみるのは大切だよね。・・・にしても長いよなあ。誰がここまで読むんだよw