人生とは大いなる暇つぶしである(書評)

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

人生とは大いなる暇つぶしである、と昔の人は言ったそうだ。
確かにそうかもしれない。ぼくらは常日頃暇を持て余し、退屈している。
そしてそれは暇及び退屈な時間が訪れるたびにふと自覚してしまうものでもある。

ぼく自身中学生の頃から、「暇と退屈をどう使うか」という事についてかなり来にしてきたし、社会人になってから暇が少なくなったせいか、学生時代よりもずっと「暇な時間をどのように使うのか」ということについて、考えることが多くなったように思う。
本書も「この本は俺が自分の悩みに答えを出すために書いたものである。」とまえがきに記しているように、作者の國分氏もそのようであったらしい(無論氏の方が遥かに進んだ形でそれらに対して問題意識を有していたわけだが)。

さて、本書ではタイトルの通り「暇と退屈の倫理学」つまり「暇を持っている場合及び退屈を感じている場合、人間はどのように過ごすべきなのか」という事について哲学・生物学・経済学・人類学など様々な分野の知識を引きながら追求していく。

第1章では、ラッセルやパスカルニーチェらが暇と退屈をどう考えてきたのかを掘り下げていく中で、暇と退屈に関する諸問題を浮き彫りにしていく。
ここではいくつか大切な見方が示される。どうも人間は退屈には耐えられないという存在のようであり、退屈を紛らわせるためには兎狩りに熱中したり、モノを消費したり、時には戦争に突入したり…。退屈を耐えられない人間につけこみ、ファシズムや消費社会が生まれたりすることもある。

第2章では、「人類は有史以前においては遊動生活を営んでおり、現在のように定住生活を始めたのはごく最近のことである。」という仮説から以下の論を展開する。作者は、人類はそもそも遊動生活に適するように能力が備わっている、つまり遊動生活をしていくために必要となる新しい環境を探索しその環境から受取る刺激を処理するために必要な能力がプリセットされていると主張する。そして定住生活ではその能力が全て生かされないのだ(だって同じ場所に留まって生活を行うのだから生活はルーチンとなり刺激は減ってしまうから)。もちろんその過剰な能力は文明を作り出す原動力となるのだが、人類は定住生活を始めてしまったが故に過剰な能力を持て余してしまい、そのせいで退屈さから逃れなれなくなったのだ。

第3章では、経済的な歴史を紐解く中で、経済力がどのように暇と退屈を定義してきたかについて考えていく。昔の働かなくても富を手にしていた有閑階級の存在(彼らは暇を持っていなかったが暇を楽しく過ごす方法を知っておりそれを実践していたから退屈ではなかったとされる)や資本主義の進展により暇を得たがその使い方を知らず際限のない消費主義に走る大衆の存在や、余暇さえも資本の論理に組み込まれた果てに暇をなくした人々の存在も描かれる。

第4章では、消費社会と暇と退屈が考察の対象となる。人々は退屈を紛らわせるため、消費をする―つまり企業が用意した広告やカタログを見たり定型化された欲望を抱き、モノ・サービスを消費して生きているわけだが―しかし、そこでは人々は次第に「『本当に』自分が欲しいものなのは何なのか?本来自分はこう過ごすべきではないのではないか?」という疑問に至ることになる(「現在の疎外と本来性」)のだという。そこから作者はルソーとマルクスを引きながら、次のように言うのである。
そもそも疎外と本来性とは切り離して考えるべきものである。つまり、人間は本来かくあるべきだという像はそもそも存在なんかしていないし、それに対して回帰しようとする考え方はそれ以外の考えに行き着くことを制限してしまう。本来性と疎外を切り離し、疎外について考えて行きましょうというのが本書のスタンスになる。

第5章では、ハイデッガーの退屈に関する第1形式、第2形式、第3形式が紹介される。退屈をもたらすものが明確になっている第1形式、退屈を紛らわすために行う気晴らしが退屈のもととなってしまっていう第2形式、そしてふとした瞬間に「あ、退屈してる」と感じてしまう第3形式である。そしてハイデッガーは言う。退屈するというのは君に自由があるからだ、退屈から逃れたければ決断せよ、と。

第6章では、動物学者の環世界という考え方から、ハイデッガーは人間だけが自由を手にしているというが、本当に自由を手にしているのは人間だけなのか?という問題を提起する中で、人間も環世界を持っている(しかもひとりひとり持っているとさえ言えそうである)のだが、人間は比較的自由に環世界を移動することが出来ると指摘する。

そして第7章で、第6章で見た考え方を元にハイデッガーの退屈論を検証していく。ハイデッガーは決断しろというが、決断することで人は決断の奴隷となってしまう。そして決断後の主体はは次の退屈を生む。決断という形を取る限り退屈→決断→退屈の無限ループは永遠に繰り返されるのだ。
そこで、作者は退屈の第2形態に着目する。確かに第2形態は退屈と気晴らしが交じり合った複雑な形態だ。しかし少なくとも決断後の主体のように自己と向き合うことが出来ないわけはないし、決断して思考停止するわけではないので考えることができる。すなわち環世界を移動することが出来る。
作者はこの形態にこそ人間の自由が残されており、暇と退屈をこの形態から過ごすことを考える。

そして作者の結論が最終章で示されるわけだが、ここまで概観すれば当然分かるように作者は「〇〇せよ」とは言わない(それでは単なる奴隷である)。考えるだけである。当然結論は個人によってバラバラだろう。

そこで、ぼくなりの結論を書いておこうと思う。

・退屈と気晴らしと共存することを考える。
・贅沢をするため、そして動物的な生を経験するために経験を積もう(高尚であるか否かを問わず)。
・単に消費社会のプレーヤーとなることだけはやめよう(無論消費社会を否定しているわけではないし、自分が消費社会の中で生きていることを前提にしている)。
・周りに鋭敏になろう。もしかしたらそれが動物的な生のきっかけになるかもしれないから。

というわけでこの難しい問題にみなさまも考えてみてくださいねー!
そもそも人類が暇を持て余して続けてきてからその時々の偉大な知性が考え続けてきた問題だからそんな簡単には解き明かせないと思うけどね。

それではまた会う日までさよなら。